他者のみならず、自分にもやさしくあることで、かえって、だれかを傷つけてしまうという矛盾。

ひとに対して、やさしくありたいのだが、そうあるためには、まずは自分に対しても、やさしくある必要がある。しかし、ここで、比較的おおきな壁に、ぶつかる。自分に対して、やさしくあるために、まっすぐに自分にむきあうと、だれかや自分を傷つけるような行為をせざるをえなくなるのだ。


ぼくにとって、自分にやさしくあるということは、自分の気もちを抑制しないことだ。しかし、感情的なことをむきだしにすることは、だれかを傷つける結果になりやすい。


ぼくは、やっぱり、ひとの気もちが、よくわからない人間みたいだ。ひとにやさしくあるという目的に対して、行為がちぐはぐであり、結果がついてこないのは、ひとの気もちがわからないからなのだろうとおもうのだ。


自己の中心に、空白というか、ひっかかりがある。どれだけまともに、ひとびととかかわりあえるようになっていても、最後のところで、壁がある。その壁は、透明のもので、一見では自分にも、その存在がわからない。どれだけ関係がふかまっていても、結局、「うちとけたふり」をしているだけのような、孤独感がある。この孤独感は、他者の問題ではなく、自分の自分自身に対する距離感の問題なのだとおもうが。


お盆やすみは、9日間もあった。明日からまた仕事がはじまる。


やすみが、ながくつづくと、内省的になる。ふと、自分をみつめてみると、なにもないことに気がつく。なやんでいるというようなことではない。自分には、なにもないんだなあという事実に、さびしい気もちになるのだ。


しかし、明日からは、ふたたび、毎日の生活を精一杯いとなんでいくだけだ。なにかがあろうが、なにもなかろうが、たいしたちがいではない。