一度、あゆみをとめようとおもう。人生のある時期には、きっと、その決断が必要なのだとおもう。

2013年くらいだったかな?大学生のときにやった就職活動が、どうにもうまくこなすことができないことをうけて、「自分には社会性がないんだ」という事実に気がつくことができた。

ちいさいころから、「ぼくはちゃんと社会に参加できないんじゃないか?」という漠然とした不安があった。それの正体がわからず、ずっとだましだまし、すごしてきたが、結局、そのツケはまわってきた。大学という最後のモラトリアムをおえる寸前になって、ようやく、社会性がないことのヤバさをしった。

それで、2013年から、社会性を手にいれるために、なにかやりはじめたり、それまでやっていたことをやめたり、じたばたしはじめたわけだが、なんか、まあ、ようやく一段落がつきそうな、納得が多少ある。

ながかった。

よくもわるくも、けっこう社会的になってきたとおもう。嘘の糸をはりめぐらした自分だけの妄想の世界では、20歳代後半はもっとスマートなすがたをおもいえがいていたが、それとはほどとおく、なかなか泥臭い。しかし、泥まみれの自分の身体から、土臭さが感じられる気がしているのが、ここちよい。ぼくは決して、ひとから不愉快にさせられているばかりではなく、自分もひとを不愉快にさせている人間なのだ。

11/1~11/4の4日間、同時代をいきる年齢のちかいひとびととの、お酒をとおしたかかわりあいをへて、なんか、気がかわった。もはや、ぼくはずいぶんと社会的な人間になっているように、おもえてきた。あいかわらず、社会に対しては、違和感がつよいが、違和感のない社会もあることを皮膚感覚で、わかりはじめてきた。

この6年くらいのあいだ、よくがんばった。よくはしってきたとおもう。文字どおり、はしるようにもなって、体力もついたし、精神的にも、すこしだけ安定してきた。

だから、ちょっと、やすもう。よくがんばった。ふつう0歳から20年くらいかけて、はぐくんでいく社会性を、わずか6年ほどで、社会性0から60くらいにまで、もってきたのだから、よくやったとおもう。

もうヘトヘトや。一回、あゆみをとめて、やすみたい。今度は、たちどまっても、また、すぐに、あるきだせるだろうと、自分への信頼がすこしはある。転職活動だって、なんだって、泥臭くやれる自信はある。だから、たちどまっても、平気だろう。

いろいろ無理がでてきたので、つぶれるまえに、もう一度戦略をねりなおすためにも、たちどまった方がよさそうだ。

今日なども、身体は疲労感があるのに、5kmを26分で、はしった。はしりながら、つぎのようなことが、おもいうかんできた。

「なんで、息がきれて、ヘトヘトなのに、はしりきろうとする。あるいたっていいじゃないか。そんなに、がんばって、どうするんだ。一度、たちどまりたいっていう気もちがあるのに、どうして、はしりつづける。はしりつづけないと、長距離をはしる体力を維持できない。5km、10kmはしれたからって、なんだというんだ。」

「たちどまれない」とか、「これしかない」というドミナントな物語が意識のなかにあるから、お酒をのんで、自由なここちになり、たのしくなったとき、それと相反して、エスノセントリズム的で、攻撃的なべつの自分が色濃くでてくるんだとおもう。

治癒か、やっぱり破滅か、どっちにころぶのか、たいへんきわどいところにいるとおもう。たちどまって、呼吸をととのえるべき時期にきたのだおもう。

わけなんか、わかっているようで、わからない。直観的に、一度、たちどまるべきだとおもうのだ。