ひとと上手に、はなす方法について。方言とか、標準語とか

ぼくは、はなすことに苦手意識があるので、つぎのようなことを意識して、はなすという表現の技術を身につけようと努力している。

 

 

理性的なはなしかた

まず、ひとつ。

まじめなことをかんがえながら、声にだして、はなすとき、イントネーションは標準語っぽくなる。このとき、ことばをつむぐ間など、はなしかたが、氷室京介っぽくなっていると、自分自身は感じている。感じているというよりも、氷室京介のはなしかたをイメージしているところがあるから、実際に、そうなっているのだろうとおもう。

感情的なはなしかた

もうひとつ、自分の気もちをのせて、つたえたいことを声にだして、かたるときも、イントネーションは標準語っぽくなる。しかし、このときのはなしかたは、hideっぽくなっているはずだ。これも、意識的にイメージしていることなので、実際に、そうなっているのだろうとおもう。hideのかたりをイメージすると、気もちをのせたことばを表現しやすくなる気がしている。

これまでは、以上の2つのことをゆるやかに意識してきた。これらを意識することができるようになってから、割合、よくはなすことができるようになった。これらにくわえ、さらに、もうひとつ、自分のはなしかたがあることに、昨日、気がついた。その気づきがあった背景も重要だとおもうので、すこしだけ、かいておく。

霊性的直覚的(宗教的)なはなしかた

昨日は、職場のひとと忘年会をした。ぼくがしゃべりたいとおもうほどの、すきなひとたちをあつめて、計7人で、お酒をのんだ。ぼくが企画した会であり、「今日は、なにもかんがえずに、よっぱらうぞ!」と、きめていたので、ビールをひとくちのんだ瞬間、つまり、はじめから、昨日はよっぱらった。身ぶり手ぶりをまじえてボケてみたりして、よくしゃべり、よくわらって、とてもたのしかった。

背景としては、以上。
3つめの自分のはなしかたについて。

昨日は、なにもかんがえずに、瞬発力でしゃべるような感じがあることに、気がついた。そういうときは、しっかりとした大阪弁のイントネーションがでているとおもう。はなしているその瞬間は、ぼくは、はなしかたをなにもイメージしていないが、ふりかえってみると、雰囲気としては、島田紳助とか、ダウンタウンの感じがでている気がする。なぜかというと、少年のころから、ぼくはかれらのテレビ番組をよくみて、そだってきたからだ。自然的な感じとか、母語的な感じがあるかもしれない。なにも意識していないから、自分がどんな、はなしかたをしているのか、実際のところはわからない。

このように、はなしかたが、3つあるということには、なんの違和感もないけれど、この3つをいつでも、つかいこなせるようになりたいとはおもう。

相手や場によっては、緊張したり、萎縮してしまったり、気をつかってしまったりして、しっかりはなすことができなくなったりすることがある。緊張するのは、誰にもあることだとおもうし、まったく緊張しなくなることもないとおもうけれど、どんなときでも、できるかぎり、自分の間で、しっかりはなせる状態にはしたい。

自分の間(境界とか、領域、なわばり)をひろげながらも、しっかり他者の存在をみとめているような距離感をたしかにしたい。

【ノート】※鈴木大拙をたよりに、自己を整理してみる。

◯ひとつめのはなしかたは、理性的。
◯ふたつめのはなしかたは、感情的。
→理性と感情の世界、つまり分別の世界。

△みっつめのはなしかたは、霊性的直覚的。
霊性的直覚の世界、つまり無分別の世界。

自己のおおきなながれとしては、こんな感じがあるようにおもう。

仏教の大意 (角川ソフィア文庫)

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