午後から神戸で研修なので、梅田の喫茶店で、ちょっと時間をつぶしている。名前をひかえるのをわすれてしまった。マクドナルドのとなりにある、純喫茶風のお店である。
朝昼兼用の食事。オムレツサンドである。サンドイッチをくわえようとすると、たまごが、スルッとこぼれおちる。あたえられたのは、ちいさなフォークひとつだけである。どないして、たべればよいのかわからないまま、顔をお皿にちかづけ、手をよごしながら、みっともなく、かきこんだ。
食後は、コーヒーをのみながら、鈴木大拙の『仏教の大意』をよんでいる。帯には、「大拙の書を一冊選ぶとしたら、迷わず私は本書を手に取る」とある。『日本的霊性』とならぶほどの古典的名著であるらしい。
冒頭から、たしかに、おもしろい。
と、こんなことが、17ページから、20ページころに、かかれている。
わかったようでわからないのは、ぼくが分析的知性にもとづいて、本書をよんでいるからだろうか。
ぼくはこれを、「差別と平等という水と油がいりまじった大海を自由におよぎまわること」だと、うけとった。おそらく、ぼくの組織観もチーム観も、このような感覚に根ざしているとおもわれる。
しかし、世間一般では、組織をまとめあげる際に、「矛盾を統合する」であったり、「矛盾を超克する」であったり、そういう理屈をもちいているようにおもわれる。世間一般のことは、ほとんど推測によっているが、ぼくがこれまで所属してきた集団は、このようである。ここで、理屈ということばがでたが、まさに、無我無心とは相反するような、理屈一辺倒のところがある。
ほくが、部署内で、必死に、はたらきかけても、うまくつたわらないのは、このためかもしれない。
ぼくの思想の根本には、このようなもの、つまり霊性的な完成をめざすということがあるために、世間一般の「ふつう」のひとびとと、多少のズレがあるのかもしれない。
それで、いまの職場の「ふつうでない」、ある非常な経験と知識をもっているお偉いさんは、「お前の哲学は、おれがしっている哲学とは、毛色が全然ちがうから、わからへん。議論するのはやめておこう。」と、よくいってくるのだが、それがなかなか示唆的であることに、気がついた。かれのそのことばには、でどころは、もっとべつのところにあるようにおもえるが、ある種のしたしみがあるように、ぼくにはおもえるという事実も付記する必要があるとおもう。
すこしずつ、脱線しはじめているが、思考のあとを社会的にのこすのが、趣旨であるので、もうすこしだけ、つづける。
かれ、つまり、そのお偉いさんとの差異のことが、なんとなくわかってきたような気がする。この間のやりとりと、いま、ここで、ことばにしていることによって。
かれは哲学を方法論として、とらえているような感じがある。根本にある精神をおしだすことはせず、その脇にある哲学を、自分の根本的な思想であるとおしだしている感じがする。しかし、おしだされている思想の群れは、すべて方法論として、コンパクトに、まとめあげられている。
ぼくは、これとは、逆であるような気がする。そもそも、ぼくには哲学などない。よって、方法論など、もっていない。哲学というものが、なんなのかも、その実のところまで、つかんでいない。そして、おしだしているのは、つねに、根本にある精神である。いつも、精神をむきだしの状態で、おしだそうと、つとめている。脇をかためる哲学をもとうともしていない。よりかかりたいものは、「ある、が、しかし、ない」。
とにかく、ぼくは、自分のことがわかりにくい。ちかごろ、ナチスやゲッベルスを軸に、勉強していることから、自分をふりかえってみると、そこには、ポピュリストに煽動される「大衆の無思想性」があることに、とまどったりしている。しかし、ナチス時代の大衆ともちがうと、自分をたもつ意思のちからがはたらくのは、「無思想的であるが、たしかな思想が心身には感じられる」という感覚があるからである。
なんか、ジョギングしながら、『仏教の大意』をよむと、おもしろそうなので、音読して、録音でもするかな。