つかれているときに本音がでる?

身体は疲労で、ヘトヘトで、ねむたいのだけど、ねる気になれない日がつづいている。酒をのまなければ、ねることができないのだけど、家のなかで、酒をのむことは気がすすまないから、居酒屋へゆく。しかし、居酒屋へいったはいいけれど、身体はヘトヘトであるわけだから、全然酒がおいしくない。にもかかわらず、瓶ビールは2本目をたのんでしまっている。こんなふうに、惰性で、酒をのむのはよそう。なんにも、よいことはない。つかれているときは、チャッと、ねるのがベストだ。

それで、なんか、本音かなんか、わからないけれど、ぼやっとしたことが、頭にうかぶ。

ほんとうは、なにもやらずに、なにも生産せずに、ダラダラと、いきていたいが、なにもやらないっていう、いきかたは、たえがたいので、不本意ながらも、なにか、たのしめることをさがしているというのが、ぼくのありようだとおもう。

なにがつらいかって、そんなに、たのしいことはたくさんころがっていないから、自分でみつけたり自分でつくったりしなければならないことだ。それで、みつけられないときや、つくることができないときに、くらい気持ちになって、おちこむのかもしれない。なんで、こんなに、気張っていきなきゃ、いきていけないのだろうと。これは、すべて、いきることをあきらめたくない、しにたくないという、あきらめのわるさのためなのだろうか。

いさぎよく、「ダメだったら、しねばいい」くらいのわりきりができれば、こんな苦労はないのだろうか、などと、ことばにしたとき、ヒトラーゲッベルスが頭にうかんできた。

ともかくも、景気づけに、酒でものんでみたが、よっぱらって、うかれてみるにも、体力は必要みたいだ。つかれていては、よっぱらって、空元気をだすこともできないようだ。