「人格の完成」について、かんがえたい。
ぼく自身が、人格の完成が達成されたような感じをもっているので、その変化はなんなのかをさぐりたいというところが、動機だ。あわてて補足するが、もちろん、人格の完成を達成したなどというのは、ひとつ階段をのぼったというだけのことで、その道は、これからも、はてしなくつづいていくことは理解している。ようは「人格の完成」ということの感じをつかむことができたということだ。
引用部はすべて、下記のホームページからのものだ。
教育基本法 第一条 教育の目的
第1条 (教育の目的)
第1条(教育の目的) 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
上記のとおり、教育基本法には「人格の完成」というものがでてくる。
これはいったいなんだというと、文科省のホームページでは、以下のように説明されている。
「人格の完成」: 個人の価値と尊厳との認識に基づき、人間の具えるあらゆる能力を、できる限り、しかも調和的に発展せしめること(「教育基本法制定の要旨」昭和22年文部省訓令)。
真、善、美の価値に関する科学的能力、道徳的能力、芸術的能力などの発展完成。人間の諸特性、諸能力をただ自然のままに伸ばすことではなく、普遍的な規準によって、そのあるべき姿にまでもちきたすことでなければならない(「教育基本法の解説」)。
普遍的な規準につつまれながら、人間の諸特性、諸能力をのばしたり、理解したりすることがたいせつだという。
そんなことは、わかっている。
ここで、おおきな問題にぶちあたるのだ。
いったいぜんたい、「普遍的な規準」とはなんなのだ?そして、それはどうすることで、目のまえにあらわすことができて、ふれることができるのだろうか。
ぼくの場合は、hideというきっかけによって、「普遍的な規準」にふれることができた。
しかし、それは万人に対して、"普遍的な"きっかけとなりうるのだろうか。
いまわかっていることで、重要なのは、hideには、「普遍的な規準」があるということだ。