お酒と依存症について、おもうこと。

ぼくはお酒をのむと、たまに、人格が裏返るようなことがある。「自分は多重人格である」などと、中二なことをいいたいわけではない。お酒をのむと、はめをはずしてしまうのだ。


よっぱらいながら、やってしまったことを割合、克明に記述する性癖もあるので、裏返った自分を客観的にながめることができる。以下に、それをすこし掲載する。

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そして、翌日、反省するのだ。
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なまなましいので、写真を掲載することはしないが、まえに、よっぱらったいきおいで、壁に飛び蹴りをして、はねかえされ、手のひらと膝を豪快に、すりむいたこともある。


それで、今回の主題だ。
お酒と依存症について、おもうこと。


おおかれすくなかれ、ひとは、なにかに依存して、いきているとおもうし、また、ぼくは自分が依存的な人間だということも自覚しているので、基本的には、なんの問題もないとおもっている。


ただ、危険なのは、お酒をのみはじめて、調子づいてきたときに、やけになったり、羽目をはずしてしまうことだ。しかし、これは、まけずぎらいの性格が作用して、突発的におきてしまう感情の爆発だともおもうので、特別に病的なものであるとはおもっていない。お酒をのんで、口論になったり、ケンカしてしまうことなど、ふつうにおこりうることだ。


また、たしかに、自我が未熟であることが、何割かは問題であるとはおもうが、これも自覚していることだし、自己更正トレーニングを自分でおこなっているわけで、一本、しっかりとした自我がたってしまえば、なんら問題のないことだ。鶴見俊輔など、ロールモデルがあるので、ある程度、予想がつくし。


むしろ、日ごろ、意識的に、精神を抑制していることの方が問題だとおもう。権威主義形式主義などの集団や組織に対して、抑圧されていることを自覚しながら、抵抗の姿勢をはっきりと、しめすことを選択できない状況が、病的に感じられる酒乱をうんでいるようにおもう。


最近は、わりとはっきりと、「わしゃ、反権威主義だ」と、態度をしめしているので、ずいぶん、精神的な不安定はましになってきていると実感している。