哲学書のやわらかいよみかたについて

哲学者の話って、きいていたり、おしゃべりしていたりする分には、めっちゃたのしいのだけど、まじめに哲学の本をよむのは、骨がおれて、けっこうつらい。

これはたぶん、ぼくが哲学的思考にむいていないためだとおもう。不なれというのもあるだろうけれど。

以上のようなことをお酒をのみつつ、カミュの『シーシュポスの神話』をよんでいて、おもった。

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もしかすると、かたい系統の哲学の本って、かるい気もちで、酒でものみながら、ウキウキ高揚しつつ、よみすすめるのが、よいのかもしれない。

大まじめに、「こりゃどういう意味だ?」と、理解するよみかただけが、すべてではないような気がしている。

思考や感情のところで、刺激をうけているのなら、その哲学の本とのむきあいかた、よみかたは、ただしいようにおもった。「あの哲学者は、こういっている」というのだけが、すべてではなくて、「あの哲学者の話をきいて(よんで)、ぼくはこういっている」という理解のありかたがあるとおもうけれど、どうだろう。

上のような哲学の本のよみかたが、本をとおした哲学者との対話のひとつのかたちだとおもうのだ。ぼくが実際に哲学者とお酒をのみかわしたときの感覚的に、そうおもう。哲学のことはよくわからないが、非常に哲学的な空想を、そのときはしている気になるので、まちがいないとおもっている。

余談になるけれど、のせた写真の情報の主題は、当然、hideの顔にある。いうまでもないけれど、あえてhideがうつるように、配置している。

hideとお酒と哲学という組合せは、とても興味ぶかい。「hide」をかたわらにおいて、のむお酒は、とてもおいしい。