決して、かっこういいものではないけれど。
どんな場所でも、どんな人間でも、そのひとをすきになったという事実があるだけで、十分だ。
ぼくはひとをすきになっていたし、愛していたんだということが、納得できた。だから、もはや、だれかと、むすばれるかどうかは、どっちでもよいことのようにおもえる。もう、ぼくは、孤独ではないのだ。だれかを愛している人間は、孤独をおそれることはないのだ。
— 桃色の蜘蛛(仮) (@hidehimuro) 2019年9月16日
自分がだれかを愛することができるとわかった人間は、「自分のことをわかってほしい」と、他者にもとめることはなくなる。だれかにわかってもらいたい、という孤独に根ざした欲求は、愛をしった人間にはでてこない。
— 桃色の蜘蛛(仮) (@hidehimuro) 2019年9月16日
自分がたれかを愛することができることをしった人間は、自分のいたみから、目をそらすことはない。
— 桃色の蜘蛛(仮) (@hidehimuro) 2019年9月16日
愛をてにするには、ひとつの覚悟が必要だ。そのかくごとは、いたみの方角をむき、いたみを受けることを、決心することだ。
— 桃色の蜘蛛(仮) (@hidehimuro) 2019年9月16日
どうせ、結婚しても、離婚して、不幸になる人間がおおくて、それが社会のスタンダードになりつつあるし、すきなひとがいなくてもいいや。離婚しなくても、いがみあっている夫婦とか、たくさんおるしね。
— 桃色の蜘蛛(仮) (@hidehimuro) 2019年9月16日
ひとを愛することができる経験があるだけで、十分だ。
執着をすてるさきに、未来はひろがる。そういうのが、やっぱりある。
— 桃色の蜘蛛(仮) (@hidehimuro) 2019年9月16日
愛をしった人間には、余裕がある。いらつかないのだ。
— 桃色の蜘蛛(仮) (@hidehimuro) 2019年9月16日
やめるという覚悟は、あきらめることではないな
— 桃色の蜘蛛(仮) (@hidehimuro) 2019年9月16日