氷室京介とのsynchronicity(シンクロニシティ)。アルバム『NEO FASCIO』をききながら、「氷室京介と大衆性」のこと、自分の存在のことについて、かんがえる。

普段、ブックカバーなどは、つけないのだが、せっかく氷室京介(のファンクラブ)から、プレゼントされたものだから、たまにつかっている。
f:id:hide-himuro:20191020125154j:plain
つかってみてわかったが、ブックカバーは、どんな本かをかくすためだけにあるわけではなく、本が、おれたりすることから保護する効用もあるようだ。

もうひとつ。

このブックカバーは、氷室京介のファンクラブから、たしか去年の誕生日プレゼントだったかで、おくられてきたものだ。おそらくだけど、かれは、なんでも自分で、きめたがるひとなので、ファンに、なにをプレゼントするかについても、最終的な決裁をしっかりしていると想像している。

氷室京介は、ああみえて、なかなかの読書家なのである。ああみえて、って、世間的に、どうみえているかは、わからないが、ファンとしては、かれが読書家なのは周知の事実である。

というわけで、このブックカバーには、「おまえら、俺のファンなんだから、しっかり、読書しろよ!」という、氷室京介からのメッセージがのっかっているように、おもえるのである。実際に、そうであるかどうかは、この際どっちでもよく、うけとったファンが、うえのように「意味づけ」していることに、おおきな意義があるとおもわれる。

そういえば、今年の誕生日月には、たしか、ノートがおくられてきた。フィールドノートくらいのおおきさで、なんか、特殊な再生紙でできたものだったとおもう。もしかしたら、これには、「1年かけて、読書したことをノートに、しっかりまとめろよ!」というメッセージがあるのかもしれない、と、いまおもう。

このような感覚をもっていることが、大衆性なのだろうとおもう。そもそも、ファンクラブというものが、大衆的なものである。

氷室京介は、自分のことばで、おおくをかたらない。作詞もほとんどしないし、ライブのMCでも、ほとんどしゃべらないことがおおい。これについては、BOOWY時代に、「school out」という曲を作詞したとき、それをきいたファンが、ほんとうに学校をやめたことで、「つたえる側の真意と、うけとる側の意味づけに、ズレがある」というような違和感をおぼえたことが、ひとつのきっかけになったと、自分でかたっている。

氷室京介は、なんにもことばをつかっていないにもかかわらず、うけてのファンは、ぼくのように勝手に意味づけをおこない、ある種、勝手に煽動されて、行動しているのである。

氷室京介は、かれが29歳になる年に、『NEO FASCIO』というファシズム批判のコンセプトアルバムをソロ2ndアルバムとして発表しているが、大衆性やポピュリストなどについて、いろいろとかんがえている人間なんだと、あらためておもう。このあたりのことが、かれの歌声など、表現のいたるところから、つたわってくるから、ぼくは、ずっと興味があるのだと、なんとなくわかってきた。ぼくは18、19歳のころから、氷室京介の熱心なファンをやっているので、しらないうちに、もうそこそこ、ながいことファンをやっている。

NEO FASCIO

NEO FASCIO

ぼくのなかでの氷室京介とのつながりを説明することは、なかなかむずかしい。うえのようなことは、たとえば、ユングのいうシンクロニシティをもちだすと、多少しっくりくるし、あるいは、鈴木大拙のいう霊性的直覚をぼくも氷室京介も志向している人間なのだとみることでも、しっくりくる。

シンクロニシティ(英語:synchronicity)とは、ユングが提唱した概念で「意味のある偶然の一致」を指し、日本語では「共時性」「同時性」「同時発生」と訳される。例えば、虫の知らせのようなもので因果関係がない2つの事象が、類似性と近接性を持つこと。ユングはこれを「非因果的連関の原理」と呼んだ。
引用:シンクロニシティ - Wikipedia

霊性的直覚については、つぎの記事を参照されたい。
hide-himuro.hateblo.jp

氷室京介は、むかし、ポッドキャストダライ・ラマの本をとりあげたり、ライブのMCで「こころで、かんがえる」という表現をしたりしているので、どうやら仏教的な方向のものさしをもっていることがわかる。

理屈偏重では、わからないことがおおいので、こうやって、穴をうめていくしかないとおもうが、このとおり、穴をうめきれずに、まとまりなくおわるしかない。