留学って必要?留学すべきなの?についての話

ひさしぶりにまじめなことをかいてみます。

留学には、いきたければ、いけばいい。いきたくなければ、いかなくていい。

回答はこれしかないとおもいます。

まとまりなく、ぼくの意見をいいます。

ぼくは学校のカリキュラムで留学にいくことには、批判的です。

学校のカリキュラムで、ほとんど無理やりに、「海外にいきたくない」人間が、海外にいかされることになるのは、けっこう危険だとかんがえています。

半強制的におこなわれることに対して、「したくない」という気もちがでてくるのは、無意識からのアラートが、見える化したものだとおもいます。

おおげさにいえば、「いまわたしが海外にいくのは危険だ」という感じで、自我がおびやかされている可能性があります。

このような状態で、海外に留学するのは危険です。

夏目漱石がロンドン留学で、神経症になったことをかんがえてみれば、あきらかです。

司馬遼太郎の『街道をゆく30』からの引用します。

街道をゆく〈30〉愛蘭土紀行 1 (朝日文芸文庫)

街道をゆく〈30〉愛蘭土紀行 1 (朝日文芸文庫)

『文学論』の自序のなかで、露骨すぎるほどの正直さでもって、憂憤を吐き出している。まず、留学については気がすすまなかったこと。〜略〜たれがこんなとこにきたかったか。〜略〜むろん、神経症的発言かと思われる。

どうも夏目漱石は、国家の命をうけて、ロンドン留学をしたことには、あまり気のりしていなかったようです。これが理由で、憂憤がたまり、神経症になり、自我がぐらついたのです。

司馬遼太郎も、強制的に、国から軍にとられて、中国出征することになりましが、そのときの回想からは、なかば強制的にいかざるをえない海外経験の危険さを感じます。

漱石、司馬は、かれらの精神の豊潤さをおもうと、特異な例であるかもしれませんが、しかし、ぼくはここから、「いきたくないのに、海外留学にいくこと」からは、危険さを感じます。

みのりのない無駄な支出になるだけでしょう。

結論をいいます。

「したい」という気もちと素直にむきあうことができなくて、コントロールでないような、自我がまだ確立されていないような状態で、「自分の気もちに反して、海外留学にいくこと」は、自我をゆがめ、うつ病を発症させるか、あるいは、ゆたかな国際性など醸成することはできず、かえって狭隘な人間性をもたせることになり、排他的な人間になるようにおもいます。

以上、留学には、無理をして、いく必要はないという話でした。