私の教育観~教育の結果は、偶然によってきまる。そこに教育の価値がある。~

転職をそろそろかんがえている。

言霊ということもあるし、内的世界の社会化というこころみのこともあるし、とりあえず、ことばを発してみる。

こうすることで、たぶん、人間の意識はうごきだす。

ことばを発することで、意識のエネルギーが、たぶん無意識の方へもながれていっているとおもうので、これによって、無意識からもエネルギーがかえってくるとおもう。

行為するためのちからをもった「おもいつき」が、自己のなかに、うまれてくるようにおもう。
以上は余談。

教育を教育の現場でおこなうことには、限界があるようにおもうので、ボチボチ退散して、ほかをさがそうということをおもっている。

教育とは、「結果として教育されていた」というようなものだとおもうのだけど、どうも、いま所属している教育の現場からは、教育が目的的におこなわれているような気がする。

教育の過程のなかで、部分において、目的を設定していくことはよいとおもうが、しかし、結果まで目的を設定してむかおうとしていることに、無理があるとおもう。

目的的にやることは、とても経営的だとおもう。しかし、教育はもともと、経営的にはたいへんきびしいものだ。そもそも公教育を採用しているし、私学経営ははじめからきびしいので補助金ありきでやっている。

直観的なので、エビデンスみたいなのはない。

しかし、まあ、人間は、「あるきっかけによって、一挙に花ひらく」ものなので、そもそも教育は直観的なものだとおもうので、それでよい。

メモおわり。