かぎられた時間のなかで、集中して、なにをするのかが重要なのだ。その集中は、「病む」ことでもよい。ふかく病むことは主体的なことだ。

人間は、それぞれに、かぎられた時間のなかで、どういきるのかということだけが重要なことなのだ、といように最近はおもえる。

かぎられた時間のなかで、なにをするのか。

まよったりする暇はなくて、集中して、行動するのが最良だとおもう。

「まよったりする暇はない」といったので、誤解が生じるので、あわてて補足しなければならない。

いいたいことの真意としては、「まよったりすること」自体も、わきめをふらず、集中しておこなうのがよいということだ。

なやんでいたり、精神的に病んでいるようなひとも、目一杯それに集中したらいいのだとおもう。なやむことすら、なやんでしまうって、それはすごくよくないとおもう。

「なやんでいるけれど、こんなことで、なやんでいて、いいのかな?」などというのは、「なやみの本質」から、すごくとおい感じがする。

なやんでいるひとは、すこしがんばって、そこからだけは、ぬけだす方がよいと、ぼくはおもっている。

なやむことは、とても主体的なことだ。なぜなやむのかというと、現実と理想との解離をうめようと努力しているからだ。その努力は、ふかい集中によって、行為しつづけていれば、いつか実をむすび、現実と理想を統合させるとおもうのだ。

それとはちがい、「なやむことすら、なやんでいる」という状態は、主体性がおびやかされているということに、気づいてほしい。