荒木"REM"正彦のhideとの自伝の書評。誰かのことをかたるときに注意すべきこと。

ひとがひとをかたるとき、「客観性をどうたもつか」という問題が、どうしてもでてくるようにおもう。気をぬくと、主観的になりすぎてしまい、「事実」としての彼(彼女)から、かけはなれてしまい、ともすれば、誹謗中傷になりかねないような人物像をえがいてしまいかねないことが、しばしばあるような気がしている。

「あのひとはこうだよね」と、何の気なしにいったことが、あのひとの名誉を傷つけてしまうことは、よくあることだとおもう。人物評好きで、うわさ好きのぼくとしては、気をつけないといけないところだ。

このことについて、『Pink cloudy sky―俺とhideの横須賀ロック・ストーリー!』(荒木"REM"正彦著)からは、えるところがおおくあった。

Pink cloudy sky―俺とHideの横須賀ロック・ストーリー! (バウハウスムック)

Pink cloudy sky―俺とHideの横須賀ロック・ストーリー! (バウハウスムック)

 

 著者はhideの友人であり、この本は20年ほどまえに、没したhideにむけて、かかれたものだ。「いたんで」とか、「しのんで」とか、そういうことをかいてもよさそうだけど、そんな感じの本ではないようにおもえたので、そういうことはかかない。ググってみると、著者は現在、神奈川県横須賀市にある歯科医院の院長をしており、元気にやっているみたいだ。医院の院長紹介の記事が、よい感じの表現で、近所にあれば、いってみたい歯科医院だとおもった。

痛みの少ない歯科治療が受けられる横須賀のライズデンタルクリニック

すこし引用する。

「趣味はドライブと音楽関連すべて。特技はギター演奏と作曲活動。若い頃は月に2~3回ライブを行っていましたが、今でも年に数回ライブでギターを弾いています。」

20年まえのギタリストREMとしての自伝をよんだばかりなので、荒木正彦さんが「若い頃は~」と自己紹介しているのが、ちょっと不思議な感じがしている。

余談がながくなったので、話をもどす。

ひとがひとをかたるとき、客観性をもたせるためには、「かたる対象と、友人としてむきあうこと」が、鍵であるように、この本をよんで、おもったのだ。この本は、hideとの関係をつづった著者の自伝なのだけれど、その自伝に登場するhideという人間をすごく丁寧に、客観的にえがいていて、下手な自伝とか、ルポルタージュにありがちな「わたしのくささ」がない。さらに、著者自身のことについての表現にも、そのくささがほとんどない。

「友人としてむきあうこと」に関して、司馬遼太郎はつぎのようなことをいっている。「21世紀に生きる君たちへ」の冒頭から一部引用する。

対訳 21世紀に生きる君たちへ【新版】

対訳 21世紀に生きる君たちへ【新版】

 

 「私は、歴史小説を書いてきた。~両親を愛するようにして、歴史を愛している。歴史とはなんでしょう、と聞かれるとき『それは、大きな世界です。かつて存在した何億という人生がそこにつめこまれている世界なのです。』と、答えることにしている。私には、幸い、この世にたくさんのすばらしい友人がいる。歴史の中にもいる。そこには、この世では求めがたいほどにすばらしい人たちがいて、私の日常を、はげましたり、なぐさめたりしてくれているのである。だから、私は少なくとも二千年以上の時間の中を、生きているようなものだと思っている。」

司馬遼太郎の小説は、客観性をかぎりなくもたせようとつとめた主観的世界観だと、ぼくは定義したいのだけれど、上記のような、「歴史のなかに、友人として、いきる」という姿勢が、それを可能にしたようにおもう。

以上より、友人のことをかたるとき、そこには、愛情やしたしみという主観的なものと、相手をひとりの人間としてみとめる客観的な距離感とが、均衡している必要があるとおもうのだ。

以上が、ひとのことをできるかぎり客観的にかたることについて。書評は後半へとつづく。