はたらきたくない。だって、どうせ誰の仕事も無意味なのだから。

はたらくことって、いったいなんなのか、そろそろわかりたい。むかしから、30歳はひとつの基準にしていた。30歳までに、なにかひとつみつけたいと、おもっていたけれど、どうにもならなそうだ。もうまもなく30歳になってしまう。時間がない。

むかし、毎日なにもすることがなくて、司馬遼太郎坂本竜馬にあこがれて、30歳までに、なにかひとつみつけて、死ねればいいやとおもっていたこともあったけれど、なにもみつけていないし、だいたい死ぬことができない。気がつけば、志なんて、みつからないまま、あっけなく30歳だ。

ぼくにとって、はたらくこととは、なになのか、さっぱりわからない。だれかが出世したら、ちょっとばかし嫉妬はするけれど、人間なのだから、自分も承認されたいという、まともな欲求の範囲内のことだとおもう。自分も出世しようとはおもわないし、承認欲求がうずく程度で、すぐにおさまる。いま、ご飯をたべれるくらいの給料があるので、これ以上、手をひろげて、はたらくことを過剰にしようともおもわない。

それでも、最近は、けっこうまじめに、はたらいている。上司の無理難題にも、+1くらいの仕事をかえすような感じがある。業務遂行について、なにかしらの問題意識をもちながら、はたらいているような気もする。客観的にみても、そうだから、給料も多少あがったのだろう。

だけど、はたらいていることは、たのしくもなんともない。たのしいとか、そういう次元のものではなくて、どういえばよいだろう、つまり、なにもないのだ。はたらくことについて、おもいうかべることも、感じることも、かんがえることも、なにもないのだ。

はたらくことは、まったく無意味なことであって、なにもなくて、ただの時間つぶしくらいな感じがするのだ。朝おきて、あわただしくシスコーンをかきこんで、電車にゆられ、自転車をこいで汗をかき、業務がはじまり、お腹がへって、お昼ごはんをたべて、また、業務について、就業時間がおわり、残業がはじまり、またお腹がへってきて、「ボチボチ退勤するか、今日もこれで、おわりだ。」とおもって…、ということのくりかえしだ。

はたらくこととは、ぼくにとって、この程度のことみたいだ。そこに、なにももとめていない。

ところが、だ。ぼくの意味のある時間は、退勤後にはじまる。

毎日、なにかことばにしたい欲求があって、お酒のちからをかりたり、漫画とか本のちからをかりて、あの手この手で、無駄なことをことばにしつづけている。これがとてもたのしくて、充実感さえおぼえるようになってきている。

ただ、このことに関しても、お金をもうけられるようになりたいとか、そういうのも、あまりない。はたらくことに、つなげたくない。ことばにすることで、自分がなにかに納得したいだけだ。そして、それを理解してくれるひとが、すこしでもふえれば、うれしくて、ほんとうに、それだけで満足するくらいだ。

このまえ、9歳も歳のはなれた男子学生と、お昼ごはんをふたりでたべた。いろんなことに、なやんだり、かんがえたりしていて、どうやら、ぼくに相談したいというか、話をしたかったようなのだ。話をきけば、いかにも青春している感じで、なにも深刻になる必要もないことだったのだけど、彼とおなじような立場で、「ぼくもいま、hideのことをもっとしりたくてさ」とか、「友だち関係って、むずかしいよねえ」とか、アレコレと1時間ほど、はなしこんだ。

これは、職員と学生という関係上、ぼくは、はたらいていることになるのだろうけれど、まったくそんな気はない。自分が、9歳も歳のはなれたひとと、たのしくコミュニケーションをとれたことが、ただただたのしかっただけだ。たぶん、彼にとっても、なににも役にたつことはないような、無意味な時間だったとおもう。ただ、彼は、はじめに顔をあわしたときよりも、おわり際の方が、多少あかるい表情をしていたようにみえたけれど。

なににしても、自分がたのしいとおもえることをするだけで、満足だとおもえるようになってきているので、それで、もうよいのだとおもう。どうせ、どこかで死ぬのだし、死んでしまえば、なにかを得ていたところで、どうしようもないのだし、いまほんのすこしでも、たのしみがあって、充実した気になる瞬間が一瞬でもあるのだから、もうそれでよい気がしてきた。そのたのしみを毎日1時間しかできなくても、週に一度でも、大丈夫になっていくような気がする。

はたらくことって、わからない。正直、はたらきたくない。不労所得があれば、ずっと、ねてくらしていきたい。だけど、おそらく、ぼくはこのまま文句をいつづけながら、はたらきつづけるのだろうとおもう。

最後、おもいついてしまったので、変なおわりかたをしてしまいそうだ。

たぶん、はたらくことは無意味なことだから、つづけていけるだろうとおもえるのだとおもう。はたらくことに、意味をつけられたら、そんなところからは、ぼくは退散するだろうとおもう。はたらくことに、ぼくがいつも半身なのは、たぶん役目とか期待とか、そういうかたちで、意味をもとめられることから、にげているためだとおもう。「できれば、はたらくことからは、にげてしまいたい」というのが、多少本心なのだ。

はたらくことって、わからない。だけど、どうせいきているかぎり、はたらかなければならないので、わからないままでも、どうってことはない。わかったところで、はたらかなくてはいけないのだから。「はたらきたくない」というのが本心で、実際に、あまりよい態度では、はたらいていないというのがわかっているだけで、十分だ。

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着想をえたやりとり。