ひとの話をききつづけるむずかしさと家族の役目について

ひとの話をききつづけるのは、すごく精神力を必要とすることらしい。河合隼雄は、そういっている。もっともすばらしいカウンセラーは、ただじっと、相手の話をききつづける人間だという。どれだけ訓練をつんできたカウンセラーであっても、ただじっとして、ききつづけることは至難の業で、どこかで破綻する。破綻しないために、カウンセラーは、べつのカウンセラーのもとで、カウンセリングをうけにいき、こころのチューニングをする。

プロフェッショナルですら、そうなのだから、自己探求のために、にわかにおもいたって、ひとの話をききはじめたような素人が、たえうるはずがないだろう。

ここのところ、調子がよくて、仕事で、毎週1、2回ほど、病んでいるひとの話をきいている。今週にいたっては、3日連続して、1日1時間〜2時間、注力してきいている。そもそも仕事だし、それ以外にも、相手の話をきくことができている自分の意識の状態が、とても興味深くて、うかれ気分だったので、病んでいるひとの話をききつづけていた。あわてて、補足しておくが、病んでいることをわるいことだとはかんがえていない。むしろ、個性の種だとかんがえている。

たぶん、これがまずかった。

昨日くらいから、わけもわからず、体がつかれている。疲労感ということばでは、いいあらわすことができないような、体のおもさがある。そして、また、やたらと、気分がくらい。どれだけ意識を俯瞰的にして、自分をながめても、いらだちや不快感が、意識の方にながれてくる。なだめることが、できない。

そういう状態にあるということを、今日気づいた。それで、「あかん、これは、誰かにしゃべりたおして、はきださないと、えらいことになる」とおもって、とりあえず、居酒屋にいって酒でものむか、どうするかと、職場からの帰宅中に思案していた。

実家ぐらしなので、家にかえると、母親がいる。帰宅して、リビングにはいるやいなや、目のまえに、ひと(もちろん母親のことだ)がいたものだから、上のように思案していたことを堰をきったように、一気にしゃべりたおした。

「ひとの話をききつづけるのって、たいへんなんよ。相手が病んでいるひとやったら、その話をきいていると、そっちにひっぱられて、こっちまで気分が病んできたり@&$%!!ていうか、なんで、オレが、他人のなやみなんか、必死にきいて、気分をめいらさなあかんねん。だいたい、こういうことがおきるのをなんで学校側はケアする方法をもってへんねん!自殺?リストカット?なんやねんそれ、あまえんな!」などと、あかるい調子で、毒づいた。

そこから、ああでもない、こうでもないと、1時間ほど、母親とはなしこんだ。母親は、「みてみ、あんたのせいで、缶ビール2本目や。そんな話を一生懸命するから。」と、あかるく、なげいていた。近頃、母親は健康のために、お酒を減らす努力をしている。

今日ほど、母親の存在をありがたいとおもったことはないかもしれない。実家でくらしていてよかった。何のために家族というものがあるのかというと、それは、「たがいに、おぎないあうため」というのが、ひとつの回答なのかもしれないとおもった。母親には今度、焼肉をごちそうしてあげよう。