「何の仕事をするか」ではなく、「だれと仕事ができるか」が、たいせつなんだなって。

大学職員の仕事をつづけるか、やめるかで、まよいがあたまをよぎりながら、日々仕事をこなしています。

教育にかかわる仕事をしたいので、そういう環境に身をおくことができているのは、とてもうれしいし、たいせつにしたい。

たけど、いっしょに仕事をしている人間で、あわないひとがおおい。
「あわない」というのは、自分にあまさがある感じになってしまって、そうではないと、いろいろ、いいたいことがでてくるのだけれど、話が脱線するので、「あわない」ということにしておく。

まあ、あわないで、いいか。実際に、直属の上司とは、あっていないし。
(ほら、脱税しはじめた。。。)

表題にもどる。

仕事をすることにおいて、もっともたいせつなことは、「なにの仕事をするか」ではなく、「だれと仕事ができるか」なのだと、最近つよくおもう。

このことは、友だちの臨床心理士からいわれて、たしかに、そのとおりだって、おもうようになった。

たとえ、みんながいやがるような仕事でも(ゴミひろいとか、トイレ掃除とかかな?)、信頼しあって、みとめあって、配慮しあえるような人間となら、たのしく、そして、創造的に仕事ができるとおもうのだ。

そういえば、この話は、職場の大学の経済学部の教授とも、したことをおもいだした。

人間は「なにになりたいか」、「なにをしたいか」だけじゃないのだ。「だれとするか」だってあるのだ。

いま、ぼくは副学長にじきじきに指名されて、副学長の仕事を手つだっている。ルーティンでいそがしいなか、その仕事がさしこんでくるので、めっちゃハードだけど、副学長からの指示は、全然苦にならない。直属の上司とは、おおちがいだ。