佐々木俊尚さんのツイート「世界認識が重要」ということについて

今日、佐々木俊尚さんが、Twitterで、こんな発言をしていた。

いつもみたいに、直情的にならず、一歩ひいて、俯瞰的に自分のことをみてみる。

ぼくはいま、世界認識というところで、悪戦苦闘している。

ぼくは、世界認識があまい。世界認識があるにはあるが、半分しかない片端の世界認識だとおもう。

世界認識というのは、たぶん二分すると「内的世界認識」と「外的世界認識」にわけられる。いうまでもないが、ぼくは「内的世界認識」ばかり、たくましくなっていて、「外的世界認識」が未熟だ。

ぼくの内的世界認識は、カミュカフカ的なものや、司馬遼太郎梅棹忠夫河合隼雄などの世界認識をある程度、自分のものとしており、割合ゆたかに、世界を認識している。

しかし、外的世界認識はというと、これはほんとうに未熟だ。世界を外的に認識する術をほとんど身につけていない。いま、まさに発展途上なのだもおもうけれど、先はながい。

内的にも、外的にも、世界を認識するには、たぶん「行為」が必要なのだとおもっている。ぼくの場合、内的な行為は、質的にも、量的にも、十分おこなってきている。しかし、外的な行為は、質量ともに、まだまだたりない。ただ外的な行為は、この数年で、急激にふえてきている。

この間のいらだちや破壊衝動などは、内的世界認識と外的なそれとのあいだにあった溝がうまってきて、ひとつに統合されはじめているが、しかし、まだまだギャップはおおきいというようなところから、おきているような気がする。

なんにせよ、めげずに、そして、失敗をおそれずに、もっと行為しなくてはいけない。

たぶん、いまは、解体して、再構築する過程にあるはずだ。

とめられない怒りの衝動。わからない怒りの表現方法。

自分のこころをいじくりまわしていたら、えらいことになってきた。

きっかけは、鬱っぽさからはじまった。
治癒したくって、こころに関する本をよみあさって、対処法をしらべたり、原因をさがして特定して、自らの意志で治癒のために行為した。

あれこれためしているうちに、どれがよかったのかわからないけれど、こころに変化がおきはじめた。

ひとつ暗闇から、ぬけだした。
暗闇から、ぬけだしたとき、自分の孤独を理解して、自分のこころのよわさへの愛情を自分自身でもつことができるようになった。

そこに、自信のカケラをみつけた気がしている。

これで、ホッと一息つける、未来にむかって、のんびりとあるいていけるとおもったが、つぎの問題がでてきた。

怒りの感情が、どうにもコントロールできない。というか、自分のなかに、これほど、つよい怒りの感情があったのかと、おどろいている。

怒りの表現方法がわからない。やり場のない怒りは、なにかを破壊することをもとめている。両刃の剣で、すべてのものをきりきざむようないきおいがある。

 

この記事を昨日、深夜にかいた。おなじものをFacebookにもあげていた。 

hide-himuro.hateblo.jp

今朝、おきて、Facebookをみてみると、お世話になっている代替医療の研究者から、メッセージがとどいていた。

「こういう感情があるのは、ぼくも何度も経験しているので、いたいほど理解できる。が、両刃の剣ではないか。この記事を理解してくれるひともいるだろうが、一部のひとにはむしろキミの価値をさげることになりかねない。キミのこの記事は、(Facebookであると)個人を特定できてしまうだろう。その場合、キミの目ざすところのためには、あまりよい結果はみえないので、記事を削除することをおすすめします。」

このメッセージに対して、つぎのようにこたえて、素直にFacebook上では、この記事を削除した。

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この怒りの表現をいさめてくれるひとがいて、とても感謝している。これで大丈夫だと、すこし、ほっとしている。

たまには毒をはく。勝手に土足で、敷居をこえてくるな、ボケ!

なんかですね、あるあつまりで酒をのんでいるときに、顔みしりだか、同級生だか、なんだかしらないけれど、「おおー、ひさしぶり」という感じで、土足ではいってこられるの、マジで勘弁してほしいんですが。

お前らは、なつかしいかしらないけれど、俺はお前らなんかと、時間を共有するつもりはないのである。

そういうノリが、マジでうっとうしい。

ゴキブリほどにも興味のない人間と、自分の時間を共有したくない。

というわけで、露骨に嫌な態度をしめして、中座して、さっさとその場から、たちさった。

いっしょにお酒をのんでいた友だちには、わるいことをしたとおもうけれど、不愉快な人間とこんな夜中にすごすことで、無駄な時間をすごしたくないというのが、本音である。

いちいち、からんでくるんじゃねえ。くそったれ。こっちはなつかしくもなんともない。内と外の配慮のない人間と同席するなんて、不快なだけだ。

俺の時間をよこぎってくるな。ボケ。

破壊衝動と『幽遊白書』

自己というひとつのまとまりのなかに、破壊衝動というのか、なにかうつくしいものに傷をつけたいという欲求がある。

うつくしく、いろどられた他者の幻想を破壊したかったり。

ある状況で、お酒をのむと、しだいにその衝動がつよくなることが、近ごろわかった。

ロックの表現なんかで、ギターを破壊したりするのは、こういう衝動の表現なのだろうか。

ポエマー(笑)のような、はずかしさをおびた、この一連のぼくの発信作業も、あるいは、自分の美意識の破壊行為なのかもしれない。

ところで、『幽遊白書』を漫画ではじめて、よんでみたのだけど、冨樫義博からは、そういう破壊衝動のようなものがあることを感じた。

幽遊白書』には、けがれのない、うつくしさの象徴ともいえる「少女」に、傷をつける表現があちらこちらにでてくる。その表現には、残酷さはあまり感じられず、うつくしいものを破壊したいという衝動だけが、うかんでくるような感覚をおぼえる。

その意味で、軀(むくろ)というキャラクターには、すごく奥のふかさを感じている。

dic.pixiv.net

もともと人間には、破壊衝動みたいなものがあるはずなのだ。だけど、文明化すると、それを野ばなしにはできないので、司馬遼太郎流にいうと、儒教や、まあひろい意味での宗教で、人間のその衝動をかいならすのだ。

現代社会では、破壊衝動をおさえる背景にある宗教の存在感がうすれてきているために、ひとびとは、この破壊衝動の意味を1から、個人個人で、むきあって、理解するという作業をしなければいけないのかもしれない。

ただ、よりどころとなる背景が、みえにくいので、破壊衝動の正体をつかむことができず、いらだちの感覚だけが、心身を支配する。そして、そのいらだちの放出として、あらゆる暴力がおこなわれているような気がする。

不気味な、この高度化された文明社会

文明が高度化していくほど、不条理がふかくなるのだと、そう理解している。なんか、ぼくの感じている不条理は、カミュのそれより、ストライクゾーンがひろい気がする。

意識と無意識を統合する訓練をしているなかで、最近、それが一段階すすんだと実感している。

意識と無意識の統合によって、原初の人間がもっていたアニミズム的な感覚が、わたしという人間にそなわりはじめたような気がしている。

ようは、生と死が身近になったのだ。文明によって、社会化されて、一度うしなった人間性をあらためて獲得したのだ。

この感覚をもちながら、文明が高度化した社会のなかにいると、不条理のこわさが、さらにひどくなったような気がする。

得体のしれなかった不条理に、なにか輪郭があたえられたような感じがある。

"人間らしく"道をあるいていたら、突然、ダンプカーがよこぎってきて、はねられて、死ぬんじゃないか?

自転車にのっていて、アッと気がついたら、ひとをはねて、刑務所にいれられるんじゃないか?

39度の発熱がありながら、明日は納期だからという理由で、徹夜で労働につかなくてはいけないんじゃないか?

病気になって死ぬのはよい。べつにいまそうなったとしても、それが寿命なのだろう。

なにかのはずみで、自殺してしまうのも、まあなんとなくわかる。近代人の不条理とは、そういうものだ。

けれど、突然、車にはねられたり、過労死したりするのは、まったくわけがわからない。文明にころされるという感じだろうか?

なんだかよくわからないけれど、無意識の感覚がとぎすまされたような気がしているからか、死や生がちかくにある感じがしているので、あっさりと文明(社会という方がわかりやすいかな?)に、ころされそうなこわさがある。

魔がさす間もなく、文明によって、アッという間に死ぬというのが、ある気がするけれど、これはたいへん不気味だ。反対に、文明によって、生かされているというのも不気味だ。

よくわからないが、おちついてきたので、もう一度、ねることにチャレンジしてみよう。

ねむることができない。

はりつめた緊張の糸を土日にはいり、一度きってしまうと、月曜日の朝をむかえるまで、はりなおすことができないので、こまる。

月曜日から金曜日と土曜日から日曜日とで、まったく人間がことなるというのが、この困難の原因なのかもしれない。

デスクのうえに、山づみになった労働を想像すると、今後、この自転車操業的な組織の運動についていけるのだろうか?と、自分の無用な責任感のおもさに、おしつぶされそうになる。

責任とか、仕事ってなんなのだろうとかんがえることがあるが、ぼくは山づみになった労働には、責任などおいたくない。

上司からは最後のところで無責任のにおいを感じているので、ほくもつぶれるまえに、にげだそうとおもっている。

やばくなったら、精神科の病院にかけこんで、サッとにげだそう。

なんか世のなかの「責任」ってことばには、欺瞞があるとおもうなあ。

しょせん、われわれのような個人など、社会の歯車にすぎないのに、なぜ仕事に責任感を過剰に、もたなければいけないのだろう?

社会に対して責任感をもちたいひとは、もてばよいのだけど、もちたくないひとはもたずに、それなりにいきていけるというのが、ゆたかな社会じゃないのかな?

かしこいひとたちが、しくみをつくって、アホなわれわれは、そのしくみの歯車になって、のんべんだらりと、ほどほどの生活ができるというありかたで、よいではないか。

いちいち界王拳をつかって、「やる気、元気、井脇」みたいな空元気をだすのは、つかれる。

もうちょっと自然なかたちで、はたらきたいし、生活をしたい。

平穏にすごしたい。

虚言癖や誇大妄想がおきる構造~意識と無意識のはざまとか~

昨日、ふつうに、電車は終着駅までいっていました。

昨日11時頃に、ぼくが乗車していた電車は、たしかに「ある駅」で10分ほど停車していました。そのときぼくは、「地下鉄なのに、なぜこんなにながく、ひとつの駅にとまるのだろう」とおもいながら、ことばをかいていました。

ぼくは昨日、この事実をすっとばして、「この電車は終着駅までいかずに、ひとつ手前の駅でおりかえしている」とおもってしまったのです。意識がもどると、記憶にのこっていました。

これはたぶん、時間を断片でしかとらえていなかったからだとおもいます。時間というものを一連のながれとして、意識のなかに位置づけることをしていなかったのだとおもいます。

あるいはつぎのようにいう方が正確かもしれません。

ひとつの体験を時間のながれのなかに位置づけず、物語のように、「場面はかわる」という断片として解釈していたのかもしれません。

なんにせよ、時間の感覚がありませんでした。

・A駅で、電車にのった。B→C→D→終着駅ひとつ手前

・「えらいながく停車しているな」とおもう(実はここが終着駅だった)

・…→D→C…「あれ?なんで逆走している」→B→「おりやなあかん!」

・「電車はミスって、終着駅までいかず、手前の駅でおりかかえしているんじゃないの?」

・駅員に、「終着駅までいかない電車って、この時間帯にありますか?」ときく。駅員はあきれて、「ありません」とこたえる。

・自分が気づかずに、のりすごしてしまったことをわかってはいるが、狐か狸に化かされた気になった。なんとなく不条理の感覚をおぼえた。のりかかった船なので、変人を演じてみて、駅員に、あきれられてみた。

泥酔すると、意識のちからがよわまって、無意識のちからがつよくなるような気がしています。無意識には、意識が位置づける時間の感覚とべつのものがあるような気がします。無意識の時間は、なんというか、一方向へのながれではない感じがします。

それで、こういうのをコントロールできないから、虚言癖とか、誇大妄想とか、そういうのがおこるのかもしれないとおもいました。

意識と無意識が統合されていなかったり、統合していく過程にはいっていない場合に、誇大妄想みたいな「ヤバい」ことをいいだすのではないかとおもいました。

ぼくの場合、お酒が「ジキルとハイドの薬」のような作用をもっています。が、うえのようなことを認識しているし(たぶん)、訓練をしているから(ほとんど我流だけど)、まあ大丈夫なのだとおもっていますが、端からみると、どうなのでしょう。

たぶん、狐や狸に化かされたような気がするとき、無意識的に、無意識になっているのではないでしょうか。

 

2019年4月13日 23時ころ

泥酔しているが、不可解だ。

ひとつ手前の駅で、電車は絶対におりかえしている。

終着駅まで、いっていない。

まちがいなく人為的なミスで、終着駅までいかず、手前で、おりかえしている。

しかし、このウソか、事実は、もはやだれもしるよしもない。

ぼくは、駅員にきいた。

「電車は終着駅までいかず、手前でおりかかえすダイヤもはじめましたか?」と。

駅員はいう。「そんなことは、ありません」と。そして、変なよっぱらいだと、さげすんだ目で、事務室へとひっこんだ。

そんなバカはあるか。
まちがいなく、ぼくがのっていた車両は、終着駅へは、いかず、ひとつ手前でおりかえしている。

しかし、もはや、だれもその真実をしるすべはない。

鉄道会社は、終着駅までいったと、最後まで、いいはるだろう。たとえそれが、ウソだとしても。