つぶれるまえに、仕事をやめようとおもう。

つかれた。最近、あついからなのか、気分もすぐれないし、集中力もつづかない。

いまの職場で、はたらく集中力が、なくなってきた。全部、なげすてて、にげたい。にげる場所など、どこにもないが。

なにか、気もちのわるさが、腹のなかにある。

「このまま、つまらない毎日が一生つづくのでは、いきていくのが、つらくて、いっそのこと、死んだ方がましだ」みたいな、そんなやすっぽい詩をうそぶきたいような感じではなくて、なんかもう、普通に死んでしまいそうなこわさがある。

さっき、「にげたい。」とことばにしたが、突然、衝動的に逃亡して、社会的に死ぬんじゃないかという気がしないでもない。

このように、くらく悲観的になるのは、やっぱり、つかれているだけだろうとはおもう。司馬遼太郎も『竜馬がゆく』で、竜馬に、「ものごとを悲観的にかんがえてしまうときは、一度ねる方がよい」みたいなことをしゃべらせている。しかし、そうとも、いいきれない気もする。

この気もちのわるさは、なんなのだ。

hideをまねて、自分のなかにhide的なものをつくってはみたが、それも限界なのかもしれない。「演じることは、モノマネであって、結局、自分らしくない」みたいな、やすっぽい違和感ではない。むしろ、hideという、生き方のモデルをみつけて、社会性を身につけることが、格段にすすんだとおもっているので、このhideを演じるということは成功の部類だ。しかし、それにも限界があったということだ。空元気の限界がきたのではないかという感じがするのだ。「hide」というモデル自体に、そもそも空元気っぽさが、あるような気がしている。空元気の社会性では、やっぱりちょっと不十分なのかもしれない。

どうやら、世間につかれている。といっても、すごくちいさな世間であるが、そこにいるのが、多少わずらわしくなってきた感じがある。

やっぱり、いまの仕事をやめようとおもう。民族学をまなんで、あたらしいモノサシを身につけることと、いまの職場で生計をたてていくということは、どうかんがえても両立不可能だ。実際に、つたえてみなければ、どうなるかはわからないので、近日中に「はたらきながら民族学をまなぼうかと、すこしかんがえている」と、つたえようとはおもうが、理解をえられる可能性は、ほとんどないだろう。だいたい、このぼくに、なにかを両立できるほどの体力と精神力があるかどうかも、うたがわしい。

このちいさな世間のなかにいたら、つぶれてしまう気がする。だから、つぶれるまえに、全部なげすてて、にげてしまいたいとおもうのだ。にげてしまったら、社会的に死んでしまうも同然なので、なんとか退却したい。にげずに、退却するのが、おとなだとおもうのだ。

この退却戦をたたかうにあたり、職場への意見はいろいろあるが、もはやなにもいうまい。それが、おとなだ。

ただ、分際をこえた期待には、こたえられる責任が、ぼくにはないということだ。そして、そのこたえられないことに対して、「もうすこしピリッとせい」、「おとなになる必要がある」などと、暗にいってくることに、ぼくはたえられないということだ。

ぼくはそういう世間的な責任には、こたえられない。ひとには、おえる責任と、おえない責任があるはずだ。ただ単に、ぼくは、「そのちいさな世間」の責任をおうことができないだけであるにもかかわらず、「責任感がない」というレッテルをはられて、「まけ癖」がついてしまうのは、健全ではないとおもう。

ある組織の論理に、はまることができない人間であるというだけで、「無責任」だというレッテルをはられ、「まけ癖」がついてしまい、その後、社会生活をおくっていくことに支障がでてしまうのは、まったく不健全なことだとおもう。

こんなことをおもうのは、ぼくが未熟で、社会性をもっていないためなのだろうか。まあ、ちいさな世間をはかるモノサシをもっていないので、社会のことがよくわからないのも、たしかなのだが。

BOOWYという普遍的な青春~氷室京介と布袋寅泰の青春観についての空想~

最近、BOØWYが、さわがしい。(以下、変換がわずらわしいので、BOOWYと表記する)

どうやら、LAST GIGSの完全版がでるらしい。

LAST GIGS -THE ORIGINAL-(完全限定盤スペシャルボックス)(4CD+トートバッグ他封入)
 

BOOWYはいつだって、青春だ。

ぼくは28歳なので、BOOWY世代ではないが、それでも青春はBOOWYとともにあった。

氷室京介布袋寅泰のライブには、何度も足をはこんだ。

 

なぜBOOWYが青春なのかというと、たぶん彼ら四人が、青春をかけぬけたバンドだったからだ。

布袋寅泰が最近のインタビューで、過去の自分たちを再解釈していた。

「チャートで1位になったんですよ。あっ、来たな。燃え尽きる時が近づいてきたなっていうのが、4人の中にあったと思いますね」

「東京ドームまで、短いですけど青春を駆け抜けた。」

lite.blogos.com

 

バンド解散後、うれたのは氷室京介布袋寅泰なので、ふたりのことしか、ぼくはよくしらない。高橋まことは、コブクロ小渕健太郎ジストニアから復帰したとき、ライブに花をおくっていたのをみて、情にあつい、かっこいい男だということをしったくらいだ。

 

話がそれた。

 

布袋寅泰BOOWYを再結成したがっている。世間では、節操がないとか、なんだとか、そういう声もあるが、余計なお世話だろう。

布袋寅泰は、きっと、あのとき自分たちの意志で時間をとめた、青春という過去を、現在という未来のなかで、ふたたびうごかしてみたいのだ。

 

一方で、氷室京介は、かたくななほどに、再結成をしようとしない。ひとりで全曲BOOWYをうたうくらいなら、再結成してくれよ、という世間の声もあるが、これもまた、余計なお世話だろう。

氷室京介は、きっと、あのとき自分たちの意志で「時間をとめる」と決断した青春の傷を、現在という未来においても尊重したいのだ。

 

氷室京介布袋寅泰は、青春という時間のとらえかたが対照的だ。

布袋寅泰は新作『GUITARHYTHM Ⅵ』で、氷室京介をのぞくBOOWYのメンバー(高橋まこと松井常松)と音をならした。

布袋寅泰は、青春を未来に位置づけて、いまをいきている。


布袋寅泰 - 「Thanks a Lot」

氷室京介は、ライブでは、かならず「ANGEL」をうたう。そして、この曲は、ソロになって一発目にリリースした曲であり、もっともたいせつにしているものだと、ことばをそえる。

氷室京介は、青春を過去に位置づけて、いまをいきている。


1988年 アルバム大賞 ANGEL 氷室京介

(けされてしまったけれど、レコ大のときの氷室京介)

 

氷室京介布袋寅泰は、このように、すごく対照的な人間なのだが、だからこそ、このふたりがともに音をならしていた、BOOWYという時のながれは偉大なのだとおもう。ふたりが、であったことは、奇跡であり、象徴的なことだとおもうので、ふたたび、その時がうごきだすことは、それこそ奇跡をまつしかないのかもしれない。

 

参考までに。

hide-himuro.hateblo.jp

"いま"という時のなかで、だれとも関係をもつことができない人間

未来の関係を想定しながら、他者にはたらきかける。たとえば、来週、またお酒をのみにいけたらよいなあ、とおもいながら。

しかし、他者との関係は、いつも、きまって、過去にあったことの結果として、目のまえにあらわれる。たとえば、ぼくの酒癖のわるさで不快にさせていて、もうしわけないとおもっていたことが、実はたのしんでくれていたんだと、相手からお酒にさそわれたあとになって、気づかされたり。

"いま"このときの自分は、だれとも、なにとも、関係をむすんでいない。"いま"このときの自分は、つねに孤独のまっただなかにいる。

未来のために行動した"いま"は、いつも解釈された過去のなかにある。"いま"は、つねに、未来と過去の狭間でうろちょろしていて、からっぽのままなのである。

ぼくという人間の対人関係の基本は、たぶんこんな感じだ。

角田光代の『三月の招待状』にでてくる、佐山宇田男という人物に、変な感情移入をしてしまった。

「私たちはみな、自分がこうしたい、と、相手にこうしてほしい、を混同させながら生きているんだ。それが関係というものなんだ。宇田男はそれがどうしてもできない。」(角田光代、『三月の招待状』213ページ)

三月の招待状 (集英社文庫)

三月の招待状 (集英社文庫)

 

 

資本は自己増殖する(マルクス)という思い出

資本については、マルクスがうまく定義している。資本は自己増殖するものだ。つまり、ふえるのが資本なのだ。

だってさ。

経済学部の教授が受験生にいっていたのを横できいていた。ひさしぶりに、そんなことをきいて、なんかいろいろおもいだした。

もうすっかりわすれていた。

当時は、こんなことから、自分のなにをしろうとしていたのだろうか。とおまわりしていたような気がするが。

いまはエスノグラフィーのことをもうすこししりたい。


『資本論』を読む (講談社学術文庫)

『資本論』を読む (講談社学術文庫)

親は子から「人間」として、みられたくないという不思議な現象

ボクくらいの子をもつ親世代の人間に、親のことを「親」としてみずに、「人間」としてみるというモノサシで、ボクの親子観をはなすと、だいたいのひとが、感情むきだしで、反論してくる。

不思議な現象だ。

そんなに、「人間」として、みられたくないのか、親は。

自分のモノサシ(尺度とか、価値観)をもつことの偉大さ

自分のことをはじめて、ほめてあげたいとおもった。昨日、以下のことをことば化していたが、それは自分史において、画期的なことだった。

「一生、あそんでくらしていくために、あたらしいものの見方がほしい。世のなかをながめて、ずっとおもしろがることができるモノサシをたしかなものにしたい。」

「あそんでくらす」=「お金持ちになる(しっかりお金をかせぐ)」という定式が、支配的だったが、どうやら、このタイミングで破壊されていって、上記のようなオルタナティブなものに再構築されてきているということが、わかった。

ぼくはこの変化、つまり、「自分のモノサシを言語化できたこと」を、自分のなかで、偉大な変化だと位置づけたくおもっていて、だから、ぼくは自分のことをはじめて、ほめてあげたいほど、すこし感動しているのだ。

今日はお酒で気分をいやす。

ひとの話をまともに、ききすぎて、体の調子がわるということを、昨日かいた。対処のために、母親とはなしこんだ。

理屈どおりに、今朝は体がすこしかるかった。昨日と今日とでは、全然ちがった。それでも、まだ完全に回復しているとはいがたいので、今日はお酒をのんでいる。

うまい。こんなに、うまい生ビールをのんだのは、ひさしぶりだとか、おもっている。一杯目には、ひとりで居酒屋のカウンターにいるのに、「ぷはぁっ」とか、ふつうにいってしまった。むしあつい夜だからなのか、とにかく、うまい。

それで、なんだか調子があがってきたのである。ということで、余談がはじまる。

自分のなかで、「子どもからおとなへ」というながれがとまらない。30歳がひとつの節目だと意識した途端に、「ずっと子どもでいたい」と、あれほど駄々をこねていた"ある自分"が、おとなになりたがっている。意地をはって、にぎりしめていた、あらゆることが、手ばなされていくような感じがする。

一生、あそんでくらしていくために、あたらしいものの見方がほしい。世のなかをながめて、ずっとおもしろがることができるモノサシをたしかなものにしたい。

そんなふうに、おもうので、あそぶために民族学をちょっくら勉強したい。あそびたいだけなので、日本語だけで、ゆるりとやりたい。国際的な競争力とか、まっぴらごめんだ。というわけで、教科書的なものをよみはじめた。ねむたくならない程度に、ゆるくよもうとおもう。
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ぼんやりながめてみると、やっぱりオートエスノグラフィーがおもしろそうだ。

オートエスノグラフィーとは、ざっくりというと、「自分が自分を対象にして、知の制度批判のために、感情経験の内省的喚起によって、記述する」ものという。たしかに、ぼくにピッタリではないか。先生には、これをすすめられたけれど、やっぱりみる目のある、すごい人間だ。

また、話がかわるが、おとなになるように、意識がむかいはじめた自分は、かえってすごく子どもっぽくなってきている。

そのひとつが、小説や漫画をすごくたのしくよめるような心身に、もどってきていることだ。自然に感情移入していて、その創作の世界のなかに、はいりこむことができている。

よっぱらってきて、つかれてきたので、かくのをやめる。しかし、これでよいのだ。だって、これは、オートエスノグラフィーのための資料でしかないのだから。

いや、今日はお酒がうまい。ていうか、ビールがうまい。