「新型出生前診断(NIPT)」についておもうこと~中絶を選択するおもさについて、など~

「新型出生前診断(NIPT)」の条件が緩和されるという記事が、2019年3月3日の朝日新聞朝刊の一面にあった。記事は二面にもつづく。

目的

-記事の要約-

「新型出生前診断(NIPT)」とは、胎児にダウン症などがあるかをしらべる検査らしい。条件緩和とは、現在よりおおくの医療機関で、検査をうけられるようにすることが、おもなもののようだ。これによって、現状、認可外でおこなわれている不適切な検査による、問題がへるだろうという思惑があるらしい。

記事では、この検査の結果次第では、いのちをめぐる、おもい決断をせまられることに関して、カウンセリングの質が担保できるのか?という批判があることも、とりあげられている。

二面の見だしには、「『陽性』で一転中絶 募った後悔」とある。

検査経験のある女性をとりあげている。

一度妊娠するという選択をして、子どもをもつ覚悟をしたひとが、「障害がないことを確認して安心して妊娠生活をおくりたい」というおもいから、検査をうけた。結果がなにであろうが、「うけいれて、うもう」と漠然とかんがえていたが、結果は陽性。この女性は、中絶を選択したという。そして、中絶後に、子どもと対面し、号泣したという。その経験から、丁寧なカウンセリングの必要性など、警鐘をならしている。

-これについて、ぼくのおもうこと-

おもいな。おもい話だ。結婚して、子どもをもつ選択をぼくができるだろうか。

どんな子がうまれてくるのかは、運命とわりきることがよいのだろうか。

ぼくは、とても中絶する選択をパートナーに提案することはできない。どんな子がうまれてきても、うけいれる。

おもいのうえでは、こういえる。

しかし、現実はあまくない。

障害をもった子がうまれてきたとき、まずはじめに、あたまをよぎるのが、もし「最悪だ。これで、ますます、ぼくがいきることがたいへんになる。仕事に、障害をもった子の育児。老人になっても、逆に、子の介護か?」だったとしたら。

こんな自分と、今後つきあっていくことに、自分自身が絶望しそうだ。

愛していると、ことばでいうことは、たやすい。しかし、愛していることを、実際に行為することは、むずかしい。
ぼくは、障害をもった自分の子を愛していたい、とことばにするけれど、はたして、ほんとうに、愛することができるかは、わからない。

だいたい、ぼくは、子をうまない男性だ。
中絶を選択したときに、ほんとうに傷をおうのは、妊娠した女性の方だ。目にみえる傷も、目にはみえない傷も、女性は無数の傷をおうだろう。

「まえをむいて、いっしょに、もう一度あるいていこう」という、紋切り型の欺瞞的なことばを、ぼくはなげかけるのだろうか。ぼくは、その無責任さにも、たえきれない。

今後、まじめに、むきあう必要のでてくる問題だとおもったので、宿題をのこすかたちで、このブログをおえようとおもう。それにしても、むずかしい問題だなあ。

大江健三郎は、どうやら、障害をもつ子がいた。氏の著書『「自分の木」の下で』に、その子との話がかかれていたことをおもいだした。

「自分の木」の下で (朝日文庫)

「自分の木」の下で (朝日文庫)