「すきなことをすきという」
「すきなことをすきとやる」
人生はたぶんそこから出発する。
ひとがいきるところは、「わたし」ありきではじまる。
しかし、「すき」というひとことから、「わたし」がひろがりはじめたとき、となりのだれかの「わたし」とぶつかる。
そのぶつかりを感じとったとき、ここでようやく、はじめて「個人」が誕生する。
ただ、この「ぶつかりを感じとること」が、「わたし」たちには、存外むずかしい。
ところで、多少の知恵を自分勝手に援用する。
日本型の自我は、「わたし」が波紋のようなひろがりをもつ円形である。そしてそれは、無限にひろがっていく性質のもので、となりのだれかのそれとは、ぶつかることがない。それぞれがパラレルワールドでのできごとのようなもので、並行的にひろがっていく。
今西錦司のすみわけ理論のように、あたかも、ひとりひとりの人間が別種の生物のようにふるまい、交錯することなく、おなじ大地で、べつの生活域をいきている。
ヨーロッパ型の自我は、「"わたし"とだれかがぶつかるところに、そびえたつ防壁」があって、となりのだれかの波紋のゆれを感じることがない。それぞれが、それぞれのテリトリーを明確にして、おなじ大地にすんでいる。
以上のようなことを河内隼雄は、たしか中空構造として、論じている。
異国の大地にうまれ、いきる人間のことはわからない。
しかし、われわれ日本を母なる大地としていきる人間のことは、"感じ"くらいは、すこしわかる。
無限にひろがる、たがいの「わたし」が、たがいの波紋を感じとり、やがて、ふたつの歯車がかみあうようにして、あたらしい渦(うず)をつくりだすところに、日本型自我をこえる、普遍的自我、つまり「個人」がうまれるのではないだろうか。
ぼくをふくめて、みんな、どれくらい、となりのだれかの波紋を感じとることができているのだろうか。
「自分の波紋が感じとられていない不安」
「自分が波紋を感じとることができていない孤独感」
「それでも自分は、波紋のあることだけはしっているという自信(おもいあがり)」
「いったいどこまでなら、波紋をひろげてもいいのだろうか?という躊躇」
あげていくときりがないが、以上のようなことを出発点に、うえのようなことをよくかんがえている。