行為と妄想をかきのこしていくところ

心身の問題などに興味があります。「自分のこと」をことばで表現することで、こころのゆたかさをはぐくんでいます。このこころみのひとつひとつが、だれかのちからになっていたとしたら、とてもうれしいです。

自立すること。自由になること。

ほんとうの意味での自立とか、個人の確立とか、こういうものって、なかなかむずかしいことなのだなって、おもいました。

とりあえず、毒家族の呪縛から解放されて、いまのところ、「家族といえども、他人なのだ」という、なにかをひっぺがしたような感じを自分の柱にして、やっていますが、これもまた、ちょっと不足しているような気がしています。

家族とか、血のつながりとか、そんなものは、幻想で、人間はそれぞれべつの個体として、個人的に、いきているのだって、おもいます。しかし、それでは、むかしの家族の写真なんかをみかえしたときに感じられる「そういえば、ぼくら家族は、なかよしこよしだったなあ」っていう、あの、あたたかくて、なにかふわっとした、やさしい空気につつまれたような一体感をどうあつかえばよいのだろうという問題は、棚にあげてしまうことになります。

写真にうつる、父親や母親の屈託のない笑顔は、いろいろおもうところが普段からあるだろうけれど、あれは、つくりわらいのようにはみえません。もし、仮につくりわらいだとしても、その写真をみているこのぼくが、良心になにかしらの変化が生じているのだから、それはまったく真実のものなのであり、「家族といえども、それは概念的に規定しているだけで、他人なのだ。」とは、わりきることはできません。

なにかをうしなったあと、そのことをおもいだして、かなしんだりするのは、まったく「わたし個人の問題」だとおもうのだけど、しかし、そういうわりきりかたが、正常なひとの道とは、あまり納得できません。

うしなうことの最大のものは死だろうとおもいます。死はイコール無なので、死ぬそのひとが、死ぬ寸前に、どれだけ孤独でかなしくあろうとも、死んでしまったら、もうまったく無なので、そのかなしみも、そのときおわります。

ようは、その死そのもののつらさは、いきのこったひとのものなのだけど、そのつらさは、いきのこった「わたし個人の問題」でしかないので、どうとでもなるんじゃないかと。霊魂が天にめされず、怨念となり…なんてことはありえないわけで。ありえるとした、いきのこったひとのこころにのみ、呪縛となり、十字架となるだけです。

なにがいいたいのか、よくわからない。

とにかく、「全部どうでもよい」と、すてはじめてから、なぜか手にいれるものが、おおくあって、そして、それは、空虚なものとは感じられなくて、すごくあたたかみのあったりする、質感がはっきりとしたものだというのは、たしかな感触なのです。

自分の意識としては、「すべてのことがどうでもよい」っておもっていて、「なんにも、なくなってしまったなあ」って、さびしい感じなのだけど、具体的にいきている自分というか、自分という全存在的には、なんだか、虚構とは対極にある真実のにおいがするものをいろいろ手にいれているなあっていう充実を味わっています。

そういうアンバランスな感じが、どうもあります。うむ、これは矛盾といわず、アンバランスというのが、正確だとおもいます。