「10年(5年)単位でいきる人間」(藤川球児というボクのヒーロー)

藤川球児の本をよんでいる。

・この口数のおおさって、なんだろう。にている。

・感じたことをしっかりとかいている。感じかたとか、ぼくとすごくにている。

藤川球児自身の自分の性格理解とぼくのそれもにている。

・小中学生のころから、ぼくは藤川球児のファンだ。最強のストレートを手にいれるまえから、すきだった。テレビでみていて、なんか感情移入したり、しだいに同一化するところがあったのだろうか。藤川球児が、その時々に感じていたことと、ぼくが藤川球児という野球選手をみて感じていたことが、おなじように感じられるときがある。

・ぼくの勝手な理屈だが、ぼくと藤川球児は、おなじ時間軸でいきているから、にているのだとおもう。藤川球児は1980年7月うまれ、ぼくは1990年8月うまれ。人間は、5年とか、10年とか、そういうくぎりをけっこう気にしてしまう。「つぎの10年をどういきるのかをきめるために、この5年をどういきるか。」とか、意識的にかんがえるひともいれば、ぼんやりと無意識的にかんがえるひともいる。ぼくにとっての藤川球児とは、「10年(5年)単位でいきる人間」の先輩なのだ。そして、藤川球児はただの先輩ではなくて、ヒーローなので、しらないうちに同一化しているから、ぼくという人間が彼ににていっているのかもしれない。余談だが、氷室京介は1960年うまれで、梅棹忠夫1920年うまれだ。生年月日をみてから、すきになっているわけではない。没入するいきおいで、すきになったあとに、生年月日をみてみて、10年単位でいきる先輩だとしったときは、いつも、ちょっと感動している。