積極的にあきらめること。すなわち、一種のさとりのこと。

ひとは、身体的にも、精神的にも、余裕がなくなってくると、そのひとのもつよさが、うしなわれていくのだということが、わかってきた。最近、わりと、そういうようなことを目にすることがあるので、ふとおもった。


余裕をたもつために、やれることはいろいろあるのだろうが、重要なのは、積極的にあきらめていくことだと、ぼくはおもう。あきらめてしまえば、身もこころも、かるくなって、自由を感じる。あきらめるなどというと、ネガティブなひびきになるが、これは一種のさとりなのだ。


自分はなにものでもないし、今後、なにものかになることもない。だれかに評価されることがあっても、それは結果でしかない。したがって、そんなことをいちいち気にしていても、しかたがないのだ。


ひとは親の性行為によって、うまれてきて、細菌かウイルス、あるいは、ひとの手によって、死んで、灰になって、土にかえるだけだ。うっかりあたえられてしまった生ではあるが、土にかえるまで、懸命にいきるだけだ。それだけのことなのだ。


このような姿勢でありさえすれば、過度に、なにかをかかえこむこともないはずだ。そうすれば、心身に余裕もうまれる。そして、自分のよさ、つまり、いいかえれば、個性のことだが、それがシンプルに表現されるようになり、おのずから、未来はひらかれていくのだとおもう。