自己責任論とか、だいっきらいだ。

「学費をはらえないんで、どうしましょう?性風俗で、はたらくしかありませんね。」などといわれて、いったいなんとこたえればいいのか。

「そうですね、がんばってください」が正解なのか?
性風俗は悪だから、やめときなさい」が正解なのか?
「ぼくはしりませんから、自己責任でやりなさい」が正解なのか?

「大学には、そこまでしてまなぶ価値はない」といいながら、これにこたえないっていうのは、ひとの道として、どうなんだろう。

「そんなこといわれても、しらんわい」というのが、正直なところだけど、しかし、「そこまでのことをいうのなら、キミがなんとか飯をくえるようになるまで、どこまでできるかわからないが、わたしの限界まで、つきあいましょう」と、こたえるのが、ひとの道だとおもうのだけど。

なにがいいたいかって、「他者に、たすけをもとめてきている人間」に、自己責任論で、対応するなってことだ。自己責任でかたづけられないから、それにくるしんでいるから、藁にもすがるおもいで、たすけをもとめているんだってことを、ちょっとでも、感じとることが必要なんじゃないのか?たとえ、そいつが、ウソつきだったとしても、信じないってことを社会のデフォルトにするのはちがうだろう。

正直者がバカをみる社会ってのは、たいへん息ぐるしいぞとおもうのである。

教育機関は、もっと、目のまえの人間のことをみなくっちゃいけないとおもうのである。

今西錦司(生態学者、人類学者)が、つくってくれた出会い。

来週の金曜日は、ちょっとたのしみなのである。

生物学系なのか、生態学系なのか、その辺のことは、ぼくはよくわからないけれど、たぶん年齢はぼくより4、5歳うえくらいなのに、その学問領域で、たいそう実力があるときき、また、その人間について、とても魅力的である先生と、お酒をのむことができる。先輩の"哲学のひと"と、いっしょに、3人でのむ。

ぼくのような、一介の素浪人みたいな、不良会計課員のさそいに、こころよく応じてくださった。顔をあわせると、「来週、たのしみにしています。ぜひ、よろしくおねがいします。」といってくださる、なんともナイスな人間なのである。哲学の先輩も、毎度々々、こころよく応じてくださるのだけれど、これは、ほんとうに、うれしい。

こちらの先生とは、去年の地方入試の博多会場への出張で、いっしょになった。そのとき、晩ごはんに、もつ鍋をたべにいったときに、とてもたのしくて、「また、ぜひ、いっしょにお酒でも、のむことができれば、うれしいです。」とつたえていた。8ヶ月くらいまえのことなので、次回がくるのが、多少ながくかかった。

なにをしゃべろうか?なにをきこうか?どんな場になるのだろう?と、いまから、ワクワクしてきた。とりあえず、この興奮と期待感をしずめるために、悪あがきかもしれないが、今西錦司でも、よみかえして、ぼんやりとイメージしてみようとおもう。

生物の世界 (講談社文庫)

生物の世界 (講談社文庫)

(↑この本は、ほんとうに名著で、オススメ。もはや古典だとおもう。)

なぜ、今西錦司をよみかえすのかというと、去年の夜会で、今西錦司のことが話題にでたからだ。「先生のご専門について、よくわかりませんが、今西錦司だったら、何冊か、よんだことがあります!今西錦司って、アレですよね、~~!?」などと、無知なのをよいことに、いつもの調子で、いろいろときいた。先生は、気さくにも、「今西錦司は、ぼくらの界隈では、多少異端視されることもあるんです」などと、いろいろと、おしえてくれた。

こんなことをかいていると、このとき、ふたりで、もつ鍋をかこみながら、しゃべっていたときのことをおもいだしてきた。

特に、こころをうたれたのは、先生が、「今日みたいに、ああでもない、こうでもない、しかし、こうである!と、自由に発想できることが、学問するうえで、一番たいせつなんですけどね。」とおっしゃっていたことだ。

というわけで、来週の金曜日は、とにかく、たのしみなのである。自由に、おもいついたことをいいながら、コミュニケーションをとれればよいな!

玉虫色の価値観が、居心地がよい。桂正和『ZETMAN』の読後の感想。

正義という、きわめて、あいまいな概念を問うて、結局最後は愛というわかりにくいものをもちだして、物語のパート1がおわった。

ZETMAN』は、おそろしく、玉虫色の物語だった。

登場人物のすべてに対して、「べつに、すきというほどではないが、きらいではないし、多少、このましくおもえるところもある」という感じで、感情移入していた。

ただ、主人公の神崎人(かんざきじん)のことは、すこしだけ、特別に気にいったのだけど、それはきっと、ぼくが、「自分がまもりたいものを、ただ無心にまもっているヒーロー」が、すきだからだとおもう。このあたりは、ちょっと、よくわからないので、いいつくせていないが、あえて、すこしことばにしてみた。

つらつらと、読後の感想をかいているが、よみおえた瞬間に、つぎのような感想がでてきた。

「自分はあまのじゃくな人間なのかもしれないな。みんながあそんでいた20歳代前半くらいまではあそばずにいて、家庭のこととか、仕事のこととか、そんなことを真剣にかんがえだす年ごろになって、あそびはじめている。」

最近は、ますます、いろんなことが、どうでもよくなってきている。すこしまえまでは、異常にためらったのに、けっこう簡単に「ウソ」をつけるようになってきているし。

なんか、「仕事、やめる、転職!」などと、さかんに、ことばにしているのも、多少、無理があるというのが、率直なところかもしれないという気もする。

はたらくということに対して、正直、ぼくは、あまり価値をみとめていない感じがする。はたらかなくて、人のお金でいきていけるようなら、それでもよいとおもう。

最近は、さっぱり、はたらく気力をもてなくて、定時退勤することが、ふえてきているし。とりあえず、いま、いきていけているのだから、はたらいて賃金をおおくえることなんかより、自分にとって、もっとたいせつなことがあるはずだとおもったり。

ZETMAN』には、ヒムロック風にいうと、「なにがいったいまともだというんだ」(SHAKE THE FAKEから引用)という思想が、ながれている。これが、この漫画をよんでいて、すごく、ここちよかったところかもしれない。

ぼくは、あまのじゃくというか、ただ単に、「あたりまえ」とか、「ふつう」という感覚を万人に通じるものだとしているひとに抵抗したくて、また、自分の主観的価値を普遍的な正義だとおもいこんで、ちかづいてくるひとから、距離をとって、にげたいだけなのかもしれないな。

以上、ねむたくなってきたので、ねる。

人の話をきく仕事をやってみたい。人の話をきくには、情にほだされてはいけないのかもしれない。

ぼくは、どちらかというと、自分の話をきいてもらいたがりなのだけど、そんな人間だからこそなのか、他者の話をきくことができたときの感覚が不思議で、ちょっとすきになってきた。

相手のことを全然同情していないときに、かえって、そのひとの話をきくことができている気がする。

「ええ、ええ。はい。ほんとうに、ええ、そうですか。」などと、ひくいトーンの声であいづちをうち、ときに、ややあかるい調子で、わらったりしていると、相手は次第に、こちらが要求もしていないことをペラペラと、はなしはじめる。

ぼくの気分としては、さきにもかいたとおり、全然同情などしていないのに、相手からは、「ながながと、愚痴まじりに、お話をしてしまって、すみません。」などと、すこしばかり、感謝の気もちがふくまれるような調子の声で、いわれたり。

こういうことが、できているときの自分の感覚が、おもしろい。全然同情していない、つまり、相手のことを全然気にかけていないときに、相手の警戒心をとくことができているというのがおもしろい。

ちょっと、経験知をたかめるために、「話をきく」職業をしてみたいようにもおもうので、手はじめに、そういう系統の資格で、比較的簡単に取得できるものをとるための勉強をはじめてみようかしら。カウンセリング系で、何かライトなものってあるのだろうか。

現場で、ただ人の話をきいているだけで、感謝されるって、すごくたのしい気がする。毎日のことになると、とてもしんどいことになるのだろうけれど、心身の調子のよいときで、相手に情がうつるようなことがない状態であるなら、けっこうたのしくできそうな気がする。たまに、そういう仕事をするというのを自分のライフスタイルにくみこんでみたい。って、つまり、いまの職場の仕事やんとおもったが、話をききながら、学校のしいたレールに誘導せなあかんというところが、全然ちがうのだ。これは、ダメだ。

いままでの意識(自分をおしころすこと)では、まともに職場の仕事をすることができなくなってきた。

自分の心身の感覚をおしころして、息をひそめて、集団に参加するということが、できなくなってきた気がする。よいのか、わるいのか、わからないが、どうも自己が肥大化してきたような感じがあるかもしれない。

これまでは、いまの職場で、はたらくために、まったく自己をころしていた。自分の意思で、努力して、そうしないと、このままでは社会に参加できそうにないと、切羽つまっていたので、ひとつの訓練として、そうしていた。

ところが、いま、自己が肥大化してきて、それができなくなってきた。よくいえば、「どうにか、この社会で、生息していくことはできる」という自信が身についてきたといえる。わるくいえば、欲がでてきたような気がする。

とにかく、いま、けっこうこまっている。とても、まともに、はたらける状態ではない。いまの職場の所属部署で、ルーティン以上のことを、自分の仕事として、おこなうことができなくなっている。もう、なんだろう、がんばれない。

こまった。賃金をもらう場への積極的参加というのが、ぼくの社会参加のひとつの形なのだが、それをがんばれない、いまの心身の状態は、よくわからなくて、けっこう不安だ。

よくわからないから、脈略なく、たしかだといえることをひとつ。ぼくは心身の感覚がある職場で、はたらきたい。

ダルいって感覚とのつきあいかた。そして、これからの自分のありかた(はたらきかたとか)について。

率直にいうと、自分の基本に、何かに対して、つねに「ダルい」という感覚がある気がする。

ほんとうに、ダルい。

しかし、何に対してダルいのかは、わからないし、ほんとうの問題が、ダルさによって、かくされている気もするから、いらだつ。ムカつく。

ダルくなって、いらだって、ムカついて、そして、そのコントロールできなさに、おちこんでしまう。

そんなわけで、「酒でものまにゃ、やってられん」という気になって、酒をのむ。酒はよい薬で、ダルさがきえて、ポジティブさが、つよくまえにでてくる。しかし、酒にかぎらず、思想によっぱらうこともふくめて、結局、まやかしにすぎず、よいがさめたあとに、むなしさという副作用がでてくるので、こまる。まあ、これは二日酔いみたいなものなので、すぐにきえるが。

梅棹忠夫さんは、自分のことを「あかるいペシミストや」といっていた。ぼくにも、その感覚にちかいものがあるとおもっているので、その意については、よくわかるが、いまのぼくは、それにはなることができない。ダメだ。

あかるさとペシミズムを同時に、たもつことなどできやしない。どちらかの極によるしかない。まんなかにいくことはできるが、それは、どちらでもないという状態にすぎず、それじゃあ、いきているここちがしない。これも、ダメだ。

それでも、最近は、このダルさがでてくるタイミングをつかみつつあるようにおもう。これは、希望だ。

何に対して、ダルいのかは、いまだ暗中模索だが、ダルさが姿をあらわす瞬間は、まえもって、つかめそうな気がしている。わかっていることは、休日がおわり労働がはじまるまえの日の夕方くらいだ。

くわえて、何をしていると、ダルさがでてこないのかも、わかりつつある。ジョギングをしているときや、他者とのあいだにできた対話の渦のなかにいるときだ。

ただ、問題は複雑怪奇で、わりきって納得することが困難なのだ。

そのひとつが、ダルいとおもったときに、なにか、ことばがうまれるように、予感するということだ。

「ダルいんだけど、しかたがなく労働している。そうしないと、いきていけないんだから、がんばれ、自分。だけど、いまにも崩壊してしまいそうだ。ほろびてしまうまえに、なんとかしなくてはいけないから、ダルいなんて、いってられないんじゃないか。」というような、ぬきさしならない感覚を心身がもったときに、自己実現への欲求がつよくなり、自己表現しようとするちからがうまれるし、まなびたいという知的好奇心が活性化してくるような気がする。

ダルいから、はりきって、活動することができる気がする。ダルくなかったら、何もしないんじゃないかって、すこし不安がある。ダルくないジョギングなどは、1年も継続できているのだが、それはダルさがあるおかげのような気がしないでもない。

以上、桂正和ZETMAN』からうけた知的刺激による、自己実現のための自己表現。

備忘として、作家や書籍などをあげておく。
pha、hide(X JAPAN HIDE)、コリン・ウィルソン(『アウトサイダー』)

アウトサイダー (集英社文庫)

アウトサイダー (集英社文庫)

ニートの歩き方 ――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法

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生活によろこびをあたえる自分本位のはたらきかたは、成立するのだろうか。

生活したかったら、労働せにゃならん。そりゃそうだ。

しかし、労働せにゃならんから、生活をおろそかにする、というのが実情だろう。なんかバグっている気がするなあ。

生活のために、労働があるんじゃないのか。
労働のために、生活があるのではないとおもうのだよ。

生活することに、よろこびを感じられるというのが、まず第一にたいせつなのだと、今日は感じた。

こういう自炊は、残業があって、19時とか、20時に帰宅したときには、とてもできっこない。ダルいもん。結局、外食か、お惣菜とか、弁当ですませてしまうのだろうから、そんなところに、生活することのよろこびは、あるのだろうか。

生活することに、よろこびを感じられるから、労働(はたらくこと)にも、よろこびを感じられるように、なるのではないのだろうか。

30歳代は、そういうサイクルでいきていこう。
20歳代最後の年は、その準備をしよう。

まずは、ぼくの生活によろこびという、うるおいをあたえなければならない。ここは、自己本位に、やっていこう。

ぼくの生活によろこびがうまれれば、きっと、ほかの誰かの生活にも、よろこびをわけあたえることができるだろう。

なぜなら、生活とは、ひとりでするものではないからだ。

生活は、文化というひろがりをもっている。
生活は、社会というひろがりをもっている。
生活は、経済というひろがりをもっている。

個人の生活は、あらゆるところに、つながっているのだ。

しかし、こうなってくると、どうやって、生活のために、労働をしていくかという最大の問題にぶちあたる。

ぼくの生活をおろそかにしない労働なんて、あるのだろうか。自分本位のはたらきかたなんて、ぼくのような平凡な人間ができるのだろうか。
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