積極的にあきらめること。すなわち、一種のさとりのこと。

ひとは、身体的にも、精神的にも、余裕がなくなってくると、そのひとのもつよさが、うしなわれていくのだということが、わかってきた。最近、わりと、そういうようなことを目にすることがあるので、ふとおもった。


余裕をたもつために、やれることはいろいろあるのだろうが、重要なのは、積極的にあきらめていくことだと、ぼくはおもう。あきらめてしまえば、身もこころも、かるくなって、自由を感じる。あきらめるなどというと、ネガティブなひびきになるが、これは一種のさとりなのだ。


自分はなにものでもないし、今後、なにものかになることもない。だれかに評価されることがあっても、それは結果でしかない。したがって、そんなことをいちいち気にしていても、しかたがないのだ。


ひとは親の性行為によって、うまれてきて、細菌かウイルス、あるいは、ひとの手によって、死んで、灰になって、土にかえるだけだ。うっかりあたえられてしまった生ではあるが、土にかえるまで、懸命にいきるだけだ。それだけのことなのだ。


このような姿勢でありさえすれば、過度に、なにかをかかえこむこともないはずだ。そうすれば、心身に余裕もうまれる。そして、自分のよさ、つまり、いいかえれば、個性のことだが、それがシンプルに表現されるようになり、おのずから、未来はひらかれていくのだとおもう。

【新聞をよむ③】7月11日朝日新聞朝刊。「敵基地攻撃」に関して、「自衛反撃能力」などと憲法を骨抜きにしたような表現をもちいることへの疑問他。

友人から、「新聞の感想の記事やけど、すきやで」などと、いってもらえたものだから、これは、はげみになるし、たのしくつづけていけそうだ。三日坊主ではおわれない。ゆるくつみかさねていこう。


朝日新聞7/11朝刊】


○イージス・アショアの配備断念にいたった背景があるなかで、「敵基地攻撃」に関する議論が自民党公明党とのあいだで温度差がうきぼりになっているようだ。この議論のなかで、ふってわいてきた「自衛反撃能力」という物騒な表現について、おもうことがある。

憲法という基礎に、まったくかかれていないのに、いつのまにやら、「自衛反撃能力」という表現をもちいはじめ、あたかも、はじめから、それがみとめられていたかのような空気を醸成していく。こういうなしくずし的な方法が、日本社会では、割合よくとられているんだなあとおもう。職場など、自分のちかくをみていても、そうだ。

骨ぬきにされた基本は、もはや基本ではない。「基本や基礎は、忠実にまもっていくから、意味がある」ということは、落合博満から、まなんだことだが、日本社会では、それがあまり理解されていないようにおもう。日本社会では、個人主義につらぬかれた硬質な集団がうまれにくく、傷をなめあったり、ピッチャーフライをお見合いして落球するような、あまえの意識がつよい集団がおおいのは、このためだとおもう。


イラク北部の都市モスルが、イスラム国(IS)から解放されて、3年がたつらしい。いまでは、市場などの再建がすすみ、すこしずつ日常がもどってきているようだが、しかし、政府の支援がなく、瓦礫となった家々の再建はすすまず、いまだそのままだという。イスラム国の爪痕は、のこっている。

そういえば、イスラム国の勢力はいつのまにか、下火になっていたことをおもいだす。すこしググってみると、2019年12月ころには、勢力が再拡大しているという記事もあったが。

暴力とまではいかず、威圧的な態度くらいのものであっても、それを基本にすえることでは、集団や組織のまとまりを維持することは、むずかしいのだとおもう。長期的な視点にたてば、恐怖政治は、悪手だろうとおもう。

政治や会社組織のことはよくわからないが、生活者としての目線からいえば、平穏にすごすことができることが、なによりも、よろこばしいことだとおもう。為政者がどんな政治思想や経営理念をもっていても、ぼくは基本的には気にならないが、ひとつあげるとすれば、「だれも排除されることがなく、平穏に、のんびりと、すごしていける社会をつくる」という基本姿勢をもっていてもらいたい。


○「ながい在宅時間 かさむ電気代」ということで、新電力各社が割安プランを続々開発しているらしい。エネチェンジという会社が、首都圏中心の967世帯で平日の電気使用量をしらべたところ、緊急事態宣言後に急増していたという。そりゃそうだとおもう。ところで、エネチェンジという会社だが、先頃、ぼくのつとめ先にも営業をかけてきた。どんな会社か、しらなかったが、なるほど、朝日新聞が記事に、その調査をとりあげるほどではあるのか。これは、ええ情報だ。


ANAが21年度は、新卒採用を中止するという。新型コロナウイルスの収束がみとおせないからだ。ぼく自身の今後どのように職業人として、いきていくのかということについて、いろいろチャレンジもしてみたいが、しばし、まちの姿勢が懸命な判断かもしれない。いまの職場で、とりあえずは、精一杯やれることをコツコツとつみかさねていこう。


朝日新聞の土曜日の朝刊が、わりとすきだ。書評欄が充実していて、あたらしい本との出会いがあるからだ。今週は、この本がおもしろそうだとおもった。

【新聞をよむ②】7月8日朝日新聞朝刊。大企業ですすんでいくテレワークが、遅々として、すすまない中小事業所のこととか、イージス・アショアとか、文化人類学者のこととか。

はりきりすぎて、三日坊主で、おわりそうだ(・・;)


朝日新聞7/8朝刊】

○今日もまた、大企業のテレワーク特集がある。「テレワーク 走りながら工夫」と、見出し。在宅では、実験機器が使用できないため、あたらしい実験ができない分、過去のデータを分析したり、オンライン会議によって議題をしぼって、議論できるようになり、会議時間が半分になったり、いろいろ企業は工夫しているようだ。その結果、業務がスリム化したり、成果もでてきているという。わが身のことをふりかえると、…、うーむ。出社率はすでに100%だ。業務のスリム化とも、ほどとおい。なにかに対する忖度のようなものが、仕事の半分くらいに、みえかくれするような。業務の合理化、効率化、要不要の整理、そして、成果をあげる。そんな工夫が、業務のなかに位置づけられていないから、ああ、つまらない。つまらないが、工夫そのものは、たのしいので、先輩と二人で、コツコツ業務の合理化とデータの蓄積と整理をやっている。


新興国では、コロナ禍が、日本とはくらべものにならないほど、ひどい状態みたいだ。ブラジルでは、新型コロナによる死者が6万5000人をこえたという。この数字は、治安が悪化した2017年の殺人事件の被害者数と、ほぼおなじという。さいわいにも、日本では、これほどひどくはないので、いきてるだけで、丸もうけの精神で、ケセラセラとわらって、いきていこうとおもう。日本にいきていて、悲惨とか、不遇などということばをつかうことは、表現として妥当性をかいている気がしてくる。


○陸上配備型迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」の配備断念をうけ、衆院安全保障委員会が、今日ひらかれるらしい。(実際に、今日、ひらかれたのか?)敵基地攻撃能力の保有について歴代内閣は憲法上、ゆるされるとしてきたという。1956年に鳩山一郎内閣は「他に手段がない場合にかぎり、法的には自衛の範囲」と説明したことが、政府見解として定着しているという。このながれで、政府は、「敵が武力攻撃に着手していれば、敵基地攻撃はできる」とのかんがえをしめしたが、この「着手」の定義が、なかなかむずかしいみたいだ。この定義について、2003年に石破茂防衛庁長官が、「東京を火の海にするぞといって、ミサイルを屹立させ、燃料を注入しはじめ、不可逆的になった場合は一種の着手だ」と説明したという。

物騒な話だ。要約しようとおもったが、やめる。


○「ウポポイ」って、なんでしょう。アイヌ語で、「みんなで、うたう」という意味だ。北海道には、民族共生象徴空間という、日本ではじめて先住民族としてのアイヌをテーマにした国立施設があるが、ウポポイはその愛称でもあるという。


○北海道には、もうひとつアイヌをテーマにした国立施設がある。国立アイヌ民族博物館だ。ふつう、博物館には国宝といわれるようなものが展示されるが、この博物館には、展示品に国宝や重要文化財はひとつもない。これは、「かつての国立博物館は『これが国家の宝物である。皆学びなさい』との姿勢でした。国家が文化財を誇示し、国民を啓蒙する役割を担った。一種の権力装置です」ということへの批判精神によって、つらぬかれているためだ。そして、また、「先住民族が『展示される』だけではなく、自ら『展示する』側になる。両者が一体化することで、博物館が展示だけでなくアイヌ文化の復興に役立てる」という基本姿勢がある。この博物館の初代館長が文化人類学者の佐々木史郎さんだ。梅棹忠夫さんたちがつくった、みんぱく(国立民族学博物館)の精神が、ひろく、うけつがれているんだなあとおもうと、うれしくて、たのしい気分になる。ぼくは、このような精神が、すきなのだ。文化人類学者は、やっぱりかっこええよなあ!

【新聞をよむ①】7月7日朝日新聞朝刊。山本太郎の都知事選とか、熊本の豪雨とか。

「新聞をよむ」という感じで、感想をためていこうとおもう。余談だが、よんでいる新聞は、朝日新聞だが、親がとっているもののフリーライドだ。思想は、関係ない。


いつまで、つづくかわからないけれど。
それでは、スタート\(^-^)/


朝日新聞7/7朝刊】

○九州の、とくに熊本県の大雨の被害、悲惨だなとはおもうが、実感がわかない。さいわいにも災害を経験したことも、被災地をみたこともないので、想像もできない。自分のこの感度のにぶさって、なんなのだろう。


山本太郎都知事選。65万7277票も、ひとりの人間にあつまったのか。ちょっと、おどろいた。つい最近まで、芸能人だったはずなのに、顔つきがちがう。顔つきは、政治家のそれとはちがう。幕末の志士とよばれた人間たちは、こんな表情をしていたのだろうかと、司馬遼太郎から影響をうけているぼくは、おもう。よき実務家が、サポートするようになれば、あるいは。勝利した小池百合子には366万1371票があつまったみたいだが、「政治屋さん」に、政治の票はあつまるものだから、たいした差のようにはおもえない。
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○「コロナ時代 ロボの出番だ!」と見出しがあるが、人間の労働量をへらせるのだろうか。ベーシックインカムなどに、つながればと期待する。最低限度の生活を保障しておくれ。


富士通が、在宅勤務を原則にするという。このまえは、カルビーも、そんな話があるとあった。仕事の内容で社員を登用する「ジョブ型」人事制度を導入するらしい。この制度がよいのかわからないが、明確な人事制度がある方がいいとおもう。上司のち●ち●か、ま●こをなめるひとが評価されるような社会は、ごめんだ。


○インド北部と中国西部との国境地帯に位置するガルワン渓谷で、6月中旬に、インド軍と中国軍の衝突があったという。しらなかった。ふいに、とびこんできたニュースだが、ふとかんがえこんでしまった。べつに平和のことではない。給料だとか、自分の仕事だとか、いろいろなやんだりすることもあるが、毎日死ぬ危険のないところにいて、気楽にすごすことができているだけで、十分しあわせなのだ。世界の平和のために、なにかできることもなく、また、なにかをしようという気も、あまりない。せめて、自分の生活範囲のなかで、かかわりあいをもつことができるひとびとと、まえむきにつきあい、たのしく、すごしていこうとおもう。


○吉川晃司がドラマにでているらしい。歳をとって、うんと、かっこええ雰囲気になったとおもう。
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落合博満流で、計画的に、運動する。

きめた。今日から、10日ほど、いっさい素振りをしない。


おもいつきで、気まぐれに、そして、がむしゃらに、運動をするのをやめる。落合博満のキャンプでの練習計画を模倣してみる。これは、課題をあらいだして、計画的に実行していく訓練にもなるだろうから、スケジュール管理の苦手なぼくとしては、ちょうどいい。
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まずは、第一ステップとして、からだの基礎をかためるトレーニング期間をもうける。写真の①のところだ。


つぎに、第二ステップだが、頭とこころをはたらかせて、イメージトレーニングする期間をもうける。当然、この第二ステップでは、第一ステップの運動を並行しておこなう。これは、写真の②のところだ。


最後に、第三ステップとして、実践期間をもうける。ぼくの場合は、実際に野球をすることが、まだできないので、素振りの再開とバッティングセンターでのうちこみだ。バッティングセンターでは、落合博満にならって、80km/hのおそいボールとゆるいカーブを中心に、うつ練習をしようとおもう。


あとは、毎日しっかりと食事をとることにする。朝ごはんは毎日たべることとするし、夕飯は、茶碗二杯はたべよう。


毎日、せいぜい1時間とすこしくらいしか、運動することができないだろうし、第一ステップに、どんなメニューをするのか、ほとんどきまっていないことが不安だが、どれだけの変化が、自分のなかでおこるのか、たのしみだ。


これから二週間ほどの暇つぶしができた。とてもワクワクしている。


以上。
今日も1日、おつかれさまでした。
おやすみなさい。


自分の人生に、あわい期待をいだかない。

人生に、あわい期待をいだくことなく、ただただ自分の欲求にだけ忠実であることにつとめて、いきてゆくことを、あらためて、いまここに、ちかう。


とはいうものの、よき理解者たちから、「あれは、かなんやつや」とおもわれない人間でいるための努力だけは、地をはいつくばってでも、おこたってはいけないことを理解している。


このことについての努力だけは、つみかさねた分だけ、自分自身の糧となり、けっして自分をうらぎらないことであると、つよくしんじている。

おじさん構文。自分の文章の基本がわかる。

ぼくのことばはこびは、「おじさん構文」だと、いいあらわしたひとがいる。とてもシンプルで、まとをいた表現だから、とてもうれしい。「おじさん」は、ぼくのアイデンティティにとって、核となるものなのだ。司馬遼太郎梅棹忠夫氷室京介、…、つよく影響をうけた人間はみんな、ぼくからみると、おじさんだ。



相手の背景にあるものを感じとるセンスと、それを相手が嫌な気にならないように、そして、ハッとなにかを気づかせるように、シンプルに表現できるセンスと技術があるひとには、とてもあこがれる。


日常の背後にあり、それをささえる陰の世界には、うえのようなひとが、割合おおくいる。ぼくは、かれらから、おおくの刺激をうけているし、これからも刺激をうけていたい。また、かれらの才能や技術、あるいは、かれらの存在そのものが、陰の世界で、日常のゆがみをささえることだけのために存在しなくてよいように、陽の目をみる機会などをつくっていくようなこともしていきたい。


陰の世界には、日常には、おさまりきらないゆたかさがある。陰の世界を、日常のおまけくらいのものだとかんがえるような、ぞんざいな態度でいては、いつまでたっても、ゆたかな社会はおとずれないだろうとおもう。


以上。


それにしても、たしかに、おじさん構文だ。自分のことを、他者から命名されたり、定義されると、客観的にみることができるということが、あたらしい発見だ。


自分の文体って、なんだろう?とか、おもうことがあっても、どんなだろうとイメージすることも、なかなかできなかったけれど、「おじさん構文」だといわれたら、なるほど、「ぼくの文章の基本は、おじさん構文だ」とイメージできて、すっきりした。