三浦春馬の死をうけて。自殺したくなったら、とにかく、すべてなげだして、にげろ。

三浦春馬が自殺しましたが、それをうけて、責任感がつよいことは、あまりよくないことだとわかりました。


「ああ、自分は、もう死んでしまいそうだ」という信号をキャッチした瞬間に、それから、どこまでたえられるかを注視しつづける。「もう無理だ」とおもう二歩三歩、手まえで、すべて、なげすててしまう。そうやって、そのしんどさの根をたちきると、なんとかいきのびることができるとおもう。


死んでしまいたいほどのしんどさの根は、だいたい仕事か人間関係にある。命以上にたいせつなものはないのだから、死にたくなれば、その原因となっているものから、にげればよいのである。


この意味で、仕事なんか適当にやればいいとおもうし、人間関係もゆるく、ええ塩梅でつきあうくらいでよいとおもう。


死ぬまで、かかえこんで、なにかをやる必要なんかない。ひとりの人間の行為なんか、ほとんど無意味なのである。


「もう無理だ」とおもいはじめた瞬間から、かんがえるべきことは、いかにして、いまの状況から脱出するかであるが、その方法としてベストなのは、全部すてて、姿をくらますことである。私度僧的に、勝手に出家すればよいのである。


現代社会の仕事も人間関係も、全然、人間の生とむすびついたものではないのだから、適当にやればいいのである。人間の生とむすびついた仕事や人間関係であれば、自死しようなどとはおもわないはずである。




死とむきあうことは、たいせつなことであるが、死んでしまったら、どうしようもない。鈴木大拙の『仏教の大意』は、死にそうなひとが、いきはじめるために参考になる本である。

仏教の大意 (角川ソフィア文庫)

仏教の大意 (角川ソフィア文庫)

あいみょんと喫茶店。

コロナさわぎがはじまるまえ、休日の朝は、10時ころから、喫茶店にいっていた。モーニングセットをたべながら、本をよむという習慣ができあがりつつあった。

 

その喫茶店では、ラジオがながれている。とにかくよく、"あいみょん"の歌、とくに「マリーゴールド」がながれていた。そのラジオの番組が、なにであるのかはわからないが、FM802だということはわかっている。


あいみょん - マリーゴールド【OFFICIAL MUSIC VIDEO】

 

あいみょんなんかに、はじめは興味はなかった。しかし、毎週、おなじ時間帯に、おなじ風景のなか、彼女の歌をきいていると、いつのまにやら、きき心地のよさを感じはじめた。ほかにも、いろいろと、あいみょんの歌がながれていたが、とりわけ「マリーゴールド」が印象的であった。

 

あいみょんは、まず声がよい。最近の商業的にうれている歌手にはめずらしく、自分の声をつかんでいるようにおもう。多少かっこつけた感じのところもあるが、基本は背のびをせず、無理のない歌声であるようにおもう。それが心地よい。また、曲調については、どこかなつかしさがあり、喫茶店のラジオからながれてくる音楽として、ふさわしい気が、なんとなくする。スターバックスみたいなところでは、すこしちがうとおもう。

 

マリーゴールド」に関していえば、とりわけ歌詞がよい。そのよさは、解釈をとやかくいうものではないとおもう。彼女の等身大をうたっているという、その"感じ"がよいのである。歌詞の意味などをとやかく詮索せず、きく側も、等身大の自分で、からだ全体をはたらかせて、彼女の歌を感じて、たのしめばよいのである。

 

なにげなくきこえてくる、あいみょんの等身大の歌は、自分自身でかたちづくっていく生活のなかに、すこしばかり、いろどりをそえてくれていたようである。こんなふうに、あいみょんの歌をきくように、肩のちからをぬいて生活ができることこそ、しあわせなのだとおもう。ぼくにとって、あいみょんと喫茶店は、その象徴のひとつなのだとおもう。

 

 

マリーゴールド

マリーゴールド

  • アーティスト:あいみょん
  • 発売日: 2018/08/08
  • メディア: CD
 

 

サッカーの安彦考真選手という人間に、感動した。

安彦選手、めっちゃかっこいい。

 

「やらない」っていう消極的な決断と実行をくりかえしてきたぼくとしては、胸をうたれるものがある。

 

「常日頃から10回素振りをするよりも1回バッターボックスに立つことが大切だと思っているんです。」

カズに憧れブラジルへ渡った安彦考真が40歳でJリーガーを志した理由 - Athlete Channel(アスリートチャンネル) - gooスポーツ

 

たしかに、一度やってみて、わかることって、すごくおおい。素振りを500回やれるようになって、いいきになっているところで、バッターボックスに1回たってみれば、1球もバットにボールがあたらずに、三振してしまうというのが、現実だったりする。ここで気がつくことは、やっぱりおおい。

 

技術の不足もだが、「やらない理由」をかんがえはじめる自分のこころのよわさが、やっぱり目につく。

 

ひとは、あきらめるために、バッターボックスにたたない理由をかんがえるための時間のばしとして、10回の素振りをやることが、割合あるのだ。そういうのは、あまりよくないよなあとおもう。

 

自分のちからでは、どうにもならないことに対しては、あきらめが肝心だが、自分のちからで、どうにかなりそうなことについては、あきらめは愚策なのだというわけだ。

あきらめは、たぶん、二種類ある。

 

スポーツ選手の思考とか、メンタルとか、おもしろい。

最近は、ずっと落合博満さんを中心に、勉強しているけれど、野球選手とはまたちがう、思考が、安彦選手にはあった。サッカー選手っぽいのだろうか。

 

サッカー選手のそれも、実際に手でふれながら、経験的に、まなんでみたい。落合博満に匹敵するほどの、オススメの本は、サッカー選手の場合、だれがかいているだろう。

【新聞をよむ④】くらしをささえる技術者のこと。アフリカとリープフロッグ。

朝日新聞7/20朝刊】


新型コロナウイルス感染者をうけいれる病院の7割をしめる公立・公的病院が、経営難におちいっている。コロナ対応の最前線をになうが、人手不足などの理由から、収益がみこめる健康診断や救急外来をけずって、対応している。このような病院自身の稼働域の縮小があるなか、ひとびとが受診をひかえるうごきもあり、外来患者が減少し、おおきな赤字となっている。「この調子だと秋にも資金が底をつく」と病院事務長はいっており、現場では、地域の医療体制が崩壊しかねないとの懸念がひろがる。


人手不足というのが、気がかりだ。なんで、こんなことになるんだろうか。いつから、こんなに体力のない国になってしまったのだろう。


やる気もなくて、あそんでくらしたいぼくがいうのもなんなのだが、医療など、人間のくらしにかかわる仕事につくひとが、へっているのは、たいへんな問題だとおもう。ぼくみたいな人間がふえてしまっては、いけないんじゃないだろうかとおもう。


ぼくは今年、部署異動があってから、電気の保安をやっている技術者といっしょに仕事をするようになった。かれらの仕事があって、ぼくは日ごろ、何気なく冷房をつけて、すずんだり、パソコンをいじって仕事をしているのだということがわかった。さっぱりわからない電気装置が、日ごろ何気なくつかっている100vの電気をつくっているのだが、それは技術者がいて、成立しているのだ。


医療もそうだが、電気の技術者たちのようなひとびとによって、ぼくたちのくらしは、ささえられているのだ。このようなひとびとが、すくなくなってしまうということは、社会の体力の減退なのだとおもう。これはたいへんなことだ。迷惑系YouTuberなどというやからがいるみたいだが、「有名になって、お金をもうけたい」などということは、余裕のある社会だから、成立するということを理解しておこう。


○高度に発達したシステムがあっては、あたらしいシステムを導入する際に、かえって、それが障害になるのかもしれない。まえのシステムをゼロにするわけにもいかず、あたらしいシステムとの、つじつまあわせに苦労することが、おそらくある。


アフリカでは、対新型コロナウイルスで、最新技術が、一気に普及していっているという。たとえば、給付金の入金には、スマートフォンのショートメールをつかった送金サービス「M-PESA(エムペサ)」のアカウントがつかわれている。これによって、「銀行の長蛇の列にならぶ必要もなくなり、また、現金のときのように、腐敗した公務員に賄賂をもとめられるおそれもなくなった」と、最新のテクノロジーによって生活が一変したことを市民はよろこんでいる。


このように、経済発展ででおくれたアフリカ諸国で、一足とびに最新技術が普及する現象を「リープフロッグ」という。たしかに、なにもない状態であれば、あたらしいシステムをぶちこんでも、プラスにはなっても、マイナスの影響はすくないだろうから、リープフロッグということが成立するようにおもう。


危機に際しては、かえって、成熟していることが、あだとなるのかもしれない。


とはいうものの、アフリカは独立してから、すでに半世紀以上たっているのだから、社会は十分に成熟しており、脂ののった若者のような体力がある社会なのかもしれない。

人間関係のこと。親であっても、他人は他人。

「あなたとわたしは、おなじではないのに、わかりあえる」から、気もちがいいのであって、「あなたとわたしは、おなじだから、わかりあえる」ということであっては、気もちがいいものではない。後者のような人間の特徴は、「おなじ」という輪から、はずれたものを排除する性質をもっているということである。ぼくは、そういう性質の存在はみとめるが、とにかく、キモいとおもうから、ちかづきたくないので、ゆるやかに距離をとって、すみわけることをめざす。


ぼくは前者のようなスタンスをとる人間だから、たとえ親であっても、他人であるとしている。他人であるといえども、いっしょにすごした時間のながさや、かかわりあいのふかさによって、愛情もうまれ、かけがえのない人間だと、おもうのである。けっして、血や家の論理で、この関係はなりたつものではないとしている。ひととひととのつながりは、関係のながさやふかさや質の総合として、あらわれてくるものなのである。これはぼくの性質である。


ところで、「あなたとわたしは、おなじだから、わかりあえる」とおもっているような人間は、うえのようなぼくの性質に対して、嫌悪感をいだくようである。この嫌悪感に、ぼくは排除の論理があることをみとめるのであるが、かれらは、素朴にそれを否定し、みとめようとしないのである。重要なのは、ぼくは、排除の論理をもつかれらの性質をちがうとはおもっても、その存在をみとめているが、かれらはぼくのような性質をみとめようとはしないことである。


心身二元論的な発想は、もう限界にきているのだとおもう。結局のところ、二元論では、排除の論理にいきつかざるをえないとおもうのだ。二元論では、たとえば、今西錦司などがいっている、「ふたつのものは、二にして一」というような仏教的発想を理解することができないから、否定する。否定するだけで、おわる。なんなら、「あいつは、とちくるって、とんでも科学にはしった」などという。ぼくは、これを非常に不健全なかんがえかただとおもっている。


話が余談にながれはじめた。


つまるところ、ぼくは、人間の関係性は、関係のながさやふかさや質に、距離感という係数をかけあわせたものの総合のようなものと、とらえているのである。前近代では、身分制度や家や土地からの拘束がつよかったため、この係数が固定的であったが、現代においては、流動的である。この係数が流動的であることによって、近代文明での人間関係は、バリエーションにとんだものになっているのである。このようにかんがえなければ、疎遠になっていた関係が、意外なことがきっかけに修復するということや、偶然であったふたりが恋愛するというようなことなどが、説明できないとおもう。


近代以降をいきるわたしたちは、実際のところは、ほとんど意識することなく、距離感という流動的な係数をかけて、他者との人間関係を構築しているのだが、前近代的身分制度や家族制度のなごりにとらわれ、それを意識しすぎることによって、「人間関係は固定的である」というおもいこみをかかえこんで、いきているのだろうとおもう。

積極的にあきらめること。すなわち、一種のさとりのこと。

ひとは、身体的にも、精神的にも、余裕がなくなってくると、そのひとのもつよさが、うしなわれていくのだということが、わかってきた。最近、わりと、そういうようなことを目にすることがあるので、ふとおもった。


余裕をたもつために、やれることはいろいろあるのだろうが、重要なのは、積極的にあきらめていくことだと、ぼくはおもう。あきらめてしまえば、身もこころも、かるくなって、自由を感じる。あきらめるなどというと、ネガティブなひびきになるが、これは一種のさとりなのだ。


自分はなにものでもないし、今後、なにものかになることもない。だれかに評価されることがあっても、それは結果でしかない。したがって、そんなことをいちいち気にしていても、しかたがないのだ。


ひとは親の性行為によって、うまれてきて、細菌かウイルス、あるいは、ひとの手によって、死んで、灰になって、土にかえるだけだ。うっかりあたえられてしまった生ではあるが、土にかえるまで、懸命にいきるだけだ。それだけのことなのだ。


このような姿勢でありさえすれば、過度に、なにかをかかえこむこともないはずだ。そうすれば、心身に余裕もうまれる。そして、自分のよさ、つまり、いいかえれば、個性のことだが、それがシンプルに表現されるようになり、おのずから、未来はひらかれていくのだとおもう。

【新聞をよむ③】7月11日朝日新聞朝刊。「敵基地攻撃」に関して、「自衛反撃能力」などと憲法を骨抜きにしたような表現をもちいることへの疑問他。

友人から、「新聞の感想の記事やけど、すきやで」などと、いってもらえたものだから、これは、はげみになるし、たのしくつづけていけそうだ。三日坊主ではおわれない。ゆるくつみかさねていこう。


朝日新聞7/11朝刊】


○イージス・アショアの配備断念にいたった背景があるなかで、「敵基地攻撃」に関する議論が自民党公明党とのあいだで温度差がうきぼりになっているようだ。この議論のなかで、ふってわいてきた「自衛反撃能力」という物騒な表現について、おもうことがある。

憲法という基礎に、まったくかかれていないのに、いつのまにやら、「自衛反撃能力」という表現をもちいはじめ、あたかも、はじめから、それがみとめられていたかのような空気を醸成していく。こういうなしくずし的な方法が、日本社会では、割合よくとられているんだなあとおもう。職場など、自分のちかくをみていても、そうだ。

骨ぬきにされた基本は、もはや基本ではない。「基本や基礎は、忠実にまもっていくから、意味がある」ということは、落合博満から、まなんだことだが、日本社会では、それがあまり理解されていないようにおもう。日本社会では、個人主義につらぬかれた硬質な集団がうまれにくく、傷をなめあったり、ピッチャーフライをお見合いして落球するような、あまえの意識がつよい集団がおおいのは、このためだとおもう。


イラク北部の都市モスルが、イスラム国(IS)から解放されて、3年がたつらしい。いまでは、市場などの再建がすすみ、すこしずつ日常がもどってきているようだが、しかし、政府の支援がなく、瓦礫となった家々の再建はすすまず、いまだそのままだという。イスラム国の爪痕は、のこっている。

そういえば、イスラム国の勢力はいつのまにか、下火になっていたことをおもいだす。すこしググってみると、2019年12月ころには、勢力が再拡大しているという記事もあったが。

暴力とまではいかず、威圧的な態度くらいのものであっても、それを基本にすえることでは、集団や組織のまとまりを維持することは、むずかしいのだとおもう。長期的な視点にたてば、恐怖政治は、悪手だろうとおもう。

政治や会社組織のことはよくわからないが、生活者としての目線からいえば、平穏にすごすことができることが、なによりも、よろこばしいことだとおもう。為政者がどんな政治思想や経営理念をもっていても、ぼくは基本的には気にならないが、ひとつあげるとすれば、「だれも排除されることがなく、平穏に、のんびりと、すごしていける社会をつくる」という基本姿勢をもっていてもらいたい。


○「ながい在宅時間 かさむ電気代」ということで、新電力各社が割安プランを続々開発しているらしい。エネチェンジという会社が、首都圏中心の967世帯で平日の電気使用量をしらべたところ、緊急事態宣言後に急増していたという。そりゃそうだとおもう。ところで、エネチェンジという会社だが、先頃、ぼくのつとめ先にも営業をかけてきた。どんな会社か、しらなかったが、なるほど、朝日新聞が記事に、その調査をとりあげるほどではあるのか。これは、ええ情報だ。


ANAが21年度は、新卒採用を中止するという。新型コロナウイルスの収束がみとおせないからだ。ぼく自身の今後どのように職業人として、いきていくのかということについて、いろいろチャレンジもしてみたいが、しばし、まちの姿勢が懸命な判断かもしれない。いまの職場で、とりあえずは、精一杯やれることをコツコツとつみかさねていこう。


朝日新聞の土曜日の朝刊が、わりとすきだ。書評欄が充実していて、あたらしい本との出会いがあるからだ。今週は、この本がおもしろそうだとおもった。