行為と妄想をかきのこしていくところ

心身の問題などに興味があります。「自分のこと」をことばで表現することで、こころのゆたかさをはぐくんでいます。このこころみのひとつひとつが、だれかのちからになっていたとしたら、とてもうれしいです。

夢日記2019/5/11 父親との口論

父親とめちゃくちゃ論争していた。ぼくは、喉から、おおきな声をだしすぎていて、声が明石家さんまみたいに、カスカスになっていた。このまま、声をはりあげていたら、喉がヒューッて音しかでなくなるようなこわさがあったけれど、激昂していたので、調節できず、がなり声をだしつづけていた。

激昂していたけれども、しかし、声の制御ができなかったことをのぞけば、頭のなかは、すごく冷静で、屁理屈かってくらい、理屈をこねくりまわしていた。闘牛士が闘牛をいなすように、ぼくとおなじように激昂する父親をもてあそんでいたような気さえする。なのに、声のトーンをかえることができなかった。声のトーンについても、冷静に「声、とんでしまうよ」とおもっていたのだけど。

というような、いままで、みたことのない感じの夢をみた。

ところで、論争の内容についてだけど、論争などとかっこつけていうほどのものではなくて、親子ケンカのたぐいだったとおもう。実際になにをいいあいしたのかは、夢のなかだけど、ぼくは父親が傷つくようなことをたくさんいっていたとおもう。

暴言的なこともいっていただろうけれど、気がかりだったのは、「この調子で、声をはりあげつづけていると、自分の声がかれてしまわないだろうか」ということだけだった。父親が傷つこうが、どうなろうが、しったこっちゃないという感じで、いうべきことを淡々といっていた。

なんか不思議な感覚を味わった夢だった。激昂しているのは、こころではなくて、体が独自にやっていることのような感覚があった。

もうひとつ、不思議だったのは、最近は父親との関係は、すごく良好で、もはや忌みきらうこともなくて、彼との会話で、ストレスなんか、もうほとんど感じていないのに、こんな夢をみたことだ。解釈を変にことばにしてしまうと、意識がそれに固着してしまうから、さけた方がよさそうにもおもえるけれど、ええい!いつものように、かいてやれ。

なんとなくおもうのは、つぎのことだ。

ぼくは父親のことがすきなのだ。家族みんなのことを愛しているのとおなじように、父親のことも愛している。忌みきらっていたころでさえ、愛していたのだ。愛していたがために、「それはちがうぞ」と相手を否定することになるような自分の意見や気もちを彼にむかって、表現することができなかったのだとおもう。いまは、今回の夢のように攻撃的な態度ではなく、おだやかに、「それはちがうよ」と父親につたえている(父親だけでなく、家族全体に)。こういう姿勢の変化のためなのか、わからないけれど、なんとなくだけど、あいかわらず家族のなかで、ういているけれど、そこで存在していることに、苦痛はなくなってきた気がしている。