「食事―労働」系の社会参加のしかた

適当に事務をやっていればいいっていう仕事ではなくなってきて、けっこうきつい。

なにがきついのか。なぜか、アイデンティティーがゆらいでいるような、危機を感じているのだ。おおげさだが、内的には、おおげさではない。

「適当に事務をやっていれば、いい」という社会参加と、「企画立案、制度設計のために知恵をしぼり、他者にはたらきかける」という社会参加のしかたは、まったくちがう。このちがいに直面して、アイデンティティーが破壊され再構築されるようなきびしさに直面しているように感じている。

ぼくはこれくらい、繊細で、社会性のない人間なのだ。これを理解しないと、社会で、はたらくということができない。

ところで、山極寿一著の『父という余分なもの』という本をよんでいる。

父という余分なもの: サルに探る文明の起源 (新潮文庫)

父という余分なもの: サルに探る文明の起源 (新潮文庫)

この本の36ページに「人類は~中略~食事という社会交渉を発明したのである。」とある。

つまり、食事も社会参加なのだ。ぼくは、この社会参加は、できる。単にできるというのではなく、水準以上かもしれない。とにかく、お酒の場での社会参加の腕は、しっかりあるとおもう。

さらに、38ページには、こうもかかれている。「人類の食生活の特異な点は、食物をその場で消費せず、自分に必要以上な量を持ち帰って、仲間と一緒に食べるということにある。~中略~食は人類にとって個人的な行為ではなく、食物を探す段階からすでに社会的な行為なのである。」

ここで、おもしろいのは、「食物を探す段階からすでに社会的な行為なのである。」とあることだ。

「食物を探す」ことは、つまり労働だとおもうが、これが意味するのは、食事と労働はひとつづきの社会的な行為だということだろう。そして、その「食事という行為」と「食物を探すという行為」は、「段階」ということばで、くぎられている。

食事と食物を探すという労働は、おなじ社会的な行為なのだが、ことなる段階として、くぎられているものなのだ。

ぼくは、食事をとおす社会参加はできているが、食物を探すという労働という段階での社会参加は、まだできていないのだ。ここに、みえた、解離というか、断絶というか、統合されていない感じが、問題の核心のような気がした。

食事をしているときは社会参加できている心地よさがあるが、労働にはそういうものはない。半分かけた、ものたりなさは、ここにある気もする。そして、リアリティーがないというのも、「食事―労働」系の社会参加が完成していなくて、「食事―」だけの社会参加になっているからかもしれない。