8050問題と持続可能な社会

今朝の朝日新聞の朝刊で、8050問題がとりあげられていた。wikiしらべでは、「2010年代以降の日本に発生している長期化した引きこもりに関する社会問題である。」とある。

小学生のころから40年もひきこもっていた50歳代の男性が、80歳まえの母親が自宅で死去したあと、なすすべなく放っておいたことが、死体遺棄としてあつかわれて、逮捕されたという事件をとりあげていた。

この男性は、場面緘黙であり、また、自閉症でもあったらしく、この事件では不起訴として処分されている。

気の毒だ。

ひきこもらざるをえない人間は、社会参加にかかわるところの主体性が、ぼろぼろなのだとおもうし、自尊心はあっても自信はないような、たいへんたよりない自我でもあるとおもう。

そんな人間が、唯一の社会との接点であった母親をうしなったとき、呆然としたのではないだろうかと、想像しているが。

この男性には、疎遠ではあったが、妹がいたらしい。母の死後、妹は、たまにこの男性と接点をもつようになった。自室のふすまをしめて、妹に対して、こころをとざしていた男性は、これによって、すこしだけふすまをあけるようになったという。

この場面だけきりとると、なんとなく、したたかに、あたらしいお母さんをこの男性はつくっただけのようにも、おもえる。

とにかく、社会にでるということは、ある人間にとっては、一大事なのだ。

こんな気の毒な人間をうまないためにも、社会にある無数の集団には、簡素でいいので、「ゆるく社会参加できるしくみ」を、もっておくべきだとおもうのだが。

ふつうのひとは、社会にでたorでていないという、0か100の二者択一でしかないが、ひきこもらざるをえないひとたちには、0~100すべてをつかって、10くらいは社会にでたとか、40は社会にでたとか、そういう悠長なモノサシが必要なのだとおもうのだ。それで、80をこえたくらいで、「あんたはもう、十分、社会にでている。免許皆伝や」と、そっとつたえるようなしくみも、必要だとおもう。

なんというか、持続可能な社会というのは、脱落者が何度でも再起できるしくみをもっている社会だとおもうのだ。