いつでも小休止ができて、いつでも再チャレンジができる社会が、多様性をみとめる社会なのだとおもう。日本を不寛容な社会にしたくない。

諸価値のうつりかわりが、はげしい時代だから、自我が不安定になりやすいというのが、現代社会なんだって、だれかがいっていた。河合隼雄やったような気もするけど、そうでない気もする。とにかく、心理学者が、いっていた。こころが傷つきやすい時代なのだ。だから、いつでも小休止できればよいなっておもう。


このような時代に対応した、重層的な自我をもちたいとおもう。しかし、そういうことは、テクニックでできるものではないとおもうし、いまは、そんなことをとやかくいいたいのではない。


友人が、いま小休止している。個性的な人間なので、創造的な仕事をしっかりやっていきそうな人間なのだ。ぼくの職場にいるような「上に、こびへつらって、尻尾をふる人間」なんかより、よっぽど魅力的な人間なのだ。かれが小休止をおえて、ふたたび社会にもまれて、活動していくために、なにか手助けをしたい。ぼくは、ぼくのモノサシでしか、ものごとをみることができないから、的はずれかもしれない。そういうことを自覚したうえで、どんな手助けができるだろうとかんがえている。こころが傷ついて、すこしのあいだ社会から、はなれて、小休止した人間が、「おちこぼれ」と、おもいこまされたり、「まけ癖」がついたりすることがないようにしてあげたい。


ぼくは、そのための具体的な方法をもたないから、いっしょにお酒をのんだり、キャッチボールをしたりしながら、会話をして、ことばによって、無形のちからをわけてあげようとするしかない。じつのところ、そのことばには、自分が勇気つけられていたりするのだが。ぼく自身が、ちょっとまえに小休止していた人間だし、そのうち、また小休止してしまいそうな人間なのだ。


いつでも、どこでも、再チャレンジができる社会であってほしい。そして、いつでも、どこでも、小休止できる社会であってほしい。それが、多様性をみとめ社会だとおもうし、ゆたかさをもつ社会だとおもう。