バッティングフォームをかためるために素振りをしていて気がついたこと。目付がたいせつ?【落合博満】

素振り500回とすこし。右400回とすこし、左100回。はじめて、右手のこういうところ(どういったらいいんだ?チョップするところかな。)の皮膚がめくれたので、やめた。グリップエンドに、こすれていたみたいだ。たのしくて、集中力があがってきていたので、600回くらいできそうだったから、残念だ。

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400回をこえたあたりで、素振りをする場所をかえた。自宅のまえの駐車場で、いつもやっているのだけど、車がはいってきたので、とりあえず場所をかえて、継続した。


このとき、自宅のドアノブと正面をむいて、バットをかまえるかたちになった。前方にあるなにか(本来であれば、ピッチャーなのだけど、ピッチャーとむかいあった経験が小学生以来ないので、わからない。)と、正面をむいて、むかいあうかたちになった。正面であったり、ボールの道筋であったりを、ちょうどよい距離で目付をすることができるようになったのがよかったのか、とてもスイングしやすい感覚があった。トップの位置にバットをいれやすく感じたし、壁をつくる感覚もあったし、われができた感覚もあったし、壁をつくれた分だけ腰で回転できた感覚もあった。からだの中心で、回転運動できている感覚があって、すごく楽にバットをふれるような気がした。


いつもは、目線がさだまらずにバットをふっていたけど、もしかしたら、これはあかんのかもしれない。景色として、どこからボールがくるのかということをイメージできるものをもたず、やみくもに、スイングするというのは、からだがブレる原因なのかもしれない。


謎だらけだが、目付があると、ちからづよく、そして、きれいなかたちで、スイングできた感じがある。などと、よろこんでばかりいてはいかんので、「スランプにおちいったら、まっくらな部屋で、素振りをする」と、落合博満さんがいっていたことを最後にしるしておく。まっくらな部屋ということは、目付など、できないということだ。けど、もしかしたら、くらやみで、スイングすると、わるいところを感じとりやすいのかもしれない。最近、数をふれるようになってきたけど、全然スイングはよくないような感触かずっとあったのだった。

「はたらきたくない」というより、「ストレスのたまるところには、いたくない」というのが正確な感覚で、つまり、職場での人間関係がストレスのたまるところだっていうことに、コロナ自粛を経験して、よくわかった。

はたらきたくないっていうのを、もうすこし正確にいうと、「ストレスのたまるところには、いたくない」という問題が根っこにあることがわかった。ぼくは、文字どおり「はたらきたくない」わけではない。はたらくことに、ストレスがついてまわるから、嫌なのだ。


では、なんでストレスがたまるのかというと、原因のひとつは人間関係だとおもう。非合理なことや、生産性のないこと、意味のないことに、労力をついやさざるをえない人間関係に、うんざりする。


出世のため評価を気にするなど、わが身の保身のこと。トップや上司から、叱責されることから、にげるために、指示などをあいまいにして責任の所在をうやむやにしてくる中間管理職に翻弄されること。


そういうような思惑を仕事にふくんで、労働をやっている人間が、ここの職場には割合おおくいるから、うんざりして、ストレスがたまって、はたらくことが嫌になるのだ。


どこにいっても、このような人間はいてるのだろうが、できるだけストレスのない生活をおくりたい。なので、そういう生活をつくっていこうとおもう。


どんな仕事か、なんの仕事をやりたいか、などではなく、「ストレスのない生活をいとなむこと」の優先順位を一番にしようとおもう。こういうことに、コロナ自粛を経験して、わかった。ストレスフリーで、たべていける生活を自立して、つくっていこうとおもう。

人間が人間らしくあるためには、週休3日制(1日5時間、週15時間労働)になるべきだ。

ひさしぶりに、職場にいって、はたらいた。人間って、8時間も9時間も、ぶっつづけで、はたらくもんじゃないね。家にかえってきたら、ヘトヘトだ。あたまがボーッとする。たぶん、労働時間が8時間だったとしても、仕事は実質的には5時間くらいしかやるべきではなくて、あとは、のんびりしとく方がよい。もう何十年、最低1日8時間、週40時間労働というきまりで、とまっているのだろう。はやく1日5時間、週15時間または週20時間労働(週休3日または4日制)に移行しよう。政治的な運動をするなら、こういう運動もよろしくです。

さて、素振りをするか。バットをもつと、ちからがわいてきた。不思議な感覚だ。

落合博満さんに傾倒する理由。学校など集団にある不合理への抵抗。ようは、自分の納得をつらぬいて、いきている落合さんが、かっこいいんだ。

ほくは、なぜ落合博満さんに傾倒するのだろう。


そもそも、ぼくは野球がすきなのだ。


しかし、それだけでは、落合博満さんに傾倒する理由としては、ものたりない。自己理解をふかめるために、もうすこし、かんがえてみたい。



毎日、すこしずつでもよいから、練習しておれば、しだいに体力はついてきて、それにともなって、技術も習熟していく。これは、たしかなことだ。もちろん、ただしいかんがえかたで、やっているかどうかで、体力アップや技術の習熟具合やふかさは、かわってくるが。


手がいたかったり、足腰がよわくて、からだがブレてしまって、満足にふることができなかったバットを500回もふることができるようになったという経験的事実が、自分のなかで、おおきな根拠となって、うえのことを裏づけている。


このようなことをいまごろになって、わかったのは、すこしばかり残念だ。もっと昔に、手をつけておれば、もっとはやくに、この真実をしることができたのだ。「まあ、今後の人生に、教訓として、いかしていくことはできるさ」と、自分をなぐさめるしかない。


なぜもっと学校時代に、野球をやらなかったのだろう。いまの自分が、どんなレベルのスイングをできているのかは、わからない。しかし、コツコツと、つみかさてねいくことができる才能が、自分にあることをしってみると、中学生のころにでも、はじめておればよかったと、多少の後悔がある。きっと、どこかのタイミングで、そこそこやれるプレーヤーになったはずだとおもう。


やっぱり、どうかんがえても、学校がぼくをダメにしたのだとおもう。学校の体質、部活動の体質が、ぼくの可能性をうばったのだ。


ぼくは、どうしても、不合理であったり、不条理をもつ集団に参加することができない。また、集団の秩序をみだすつもりはないが、それとおなじつよさで、個人の個性を抑圧するありかたをみとめるつもりはない。自分自身が納得できないことに、むやみにしたがうことはできないのだ。


公立の中学校の野球部でありながら、午後7時8時まで拘束することは、度がすぎているだろうとおもう。標準服をもっているが、校則として、身なりがさだめられているわけではない公立高校であるにもかかわらず、頭髪は丸刈りで、服装は学ランを指定する、旧日本軍全盛時代のようなありかたをよしとしている野球部も、度がすぎているだろう。


まったくの不合理だ。こんなところで、個人の個性を発揮できるわけはないだろう。できたとしても、余程、精神的につよくあらなければならないだろうとおもう。ひとりっきりの、孤独で未成熟のティーンエイジャーには、不可能にちかいだろうとおもう。


ぼくは、ここのところで、落合博満さんに、したしみを感じているのだとおもう。落合さんは、高校時代に、実力がありながらも、先輩に暴力をふるわれる毎日に、嫌気がさして、野球をやめている。学校や野球部の不合理に、つぶされていたのだ。しかし、そこから、かれは奮起し、再起し、「オレ流」という個性を発揮し、集団の不合理や不条理とたたかい、かちぬいていく。ぼくは、かれのここに、尊敬の念をいだくのだ。


ようは、自分の納得をつらぬいて、いきている落合さんが、かっこいいんだ。


采配

采配

  • 作者:落合博満
  • 発売日: 2011/11/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

バットの素振りを500回できるようになった野球素人の素朴な感想。なぜプロ選手にもなって、一流をまねして、まなぶ姿勢がないのだろう?【落合博満】

落合博満野村克也掛布雅之松井秀喜金本知憲


ぼくがいま、しっている大打者をあげただけだが、かれらは、みんな素振りを重視している。「バッティングの基礎は、素振りでつくる」と。


落合博満野村克也金本知憲は、現在の選手に対して、「なぜ素振りをしないんだ?」と疑問をなげかけている。


「マシン打撃で、パーンとうつのは、気持ちがよいが、あれでやった気になっているだけなのではないの?」と、たしか金本さんはいっていたし、「野球選手は、やっぱりボールをつかう練習をしたい。だって、たのしいから。素振りみたいな地味な練習が、一番たのしくない。」と落合さんはいっていた。


偉大な選手がいっていて、かつ、実際にやってみると、それなりに理にかなっているとおもえることを、なぜやらないんだろうと、率直におもう。一流をまねすることが、まなぶことの王道だとおもうけれど。


特に、阪神タイガースの選手には、毎日素振りを1000回くらいやってもらいたい。ぼくでも毎日500回できるのだから、1000回くらいやらないと、3割バッターやホームラン30~40本をうつバッターには、なれないとおもう。

バットの素振りを500回できる身体になった。つみかさねてきたこと(練習)は、絶対に、自分を裏ぎらない。【落合博満】

素振りを500回したあと、お風呂あがりにのむ、ハイボールはうまい。既製品じゃなくて、ウイスキーと炭酸水で、ちゃんとわっている。何度でもいうが、うまい。

 

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2ヶ月とすこしまえは、満足にふることができなかった930gのバットを500回もふれるようになったのだ。いまや、500回ふっても、手の皮膚が、ずりむけることもない。これはすごい変化だ。

この記事のように、ずっと試行錯誤している。

hide-himuro.hateblo.jp

 

落合博満さんのいうとおりだ。

つみかさねてきたこと(練習)は、絶対に、自分を裏ぎらない」。


打撃の神落合博満 名言

 

ほかにも、落合博満さんは、「野球は、体技心」だという。ふつう心技体というが、野球の場合は、順番がちがうとかんがえている。つまり、野球をできる体力が、からだに身につくことが、まずはじめに、やるべきことで、その後に技術事の修練がある。そして、体と技が成熟したところに、精神の安定があるのである。

采配

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  • 作者:落合博満
  • 発売日: 2011/11/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

500回ふれるようになってきて、たしかに、そのとおりだと、実感している。トップの位置だとか、トップの位置にかまえたときの右肘の角度だとか、スイングのときの右肘のぬきかただとか、そういう技術的なことをかんがえる余裕が、うまれはじめた。

 

 

今日などは、左打ちでスイングしていたときに、「トップの位置での左肘の角度によって、スイングのとき左肘をぬきやすがかわる」という感触があることを発見した。この感触を右打ちでも適用した。こんな感じで、理想のスイングを追求しながら、素振りをしている。

 

 

とにもかくにも、からだができあがってきている。あまり筋肉がつきやすい体質ではないみたいだが、それでも、すこしからだはおおきくなっている。「すこしふとりましたか?」といわれることが、おおいのであるが、それはまちがった印象だとおもっている。しかし、お酒ものむし、よくたべるので、実際に、ふとっているのかもしれない。体重としては1~2kgの変化である。おもしろいことに、「野球のからだは、野球でつくる」という落合博満流でやっていて、素振りとジョギングだけしかやらず、筋トレなどはやっていないためか、あんこ型落合博満っぽい体型に、ちょっと変化していっているような感じなのである。

バットの素振りを500回できるようになって気づいたこと。【落合博満流バッティング練習】

ここ二ヶ月のあいだ、たまにとる完全休養日をのぞいて、毎日バットの素振りをしている。これだけやっていると、最近になって、だいぶ筋力もついてきて、ふれるようになってきた。それで、今日は、とうとう素振り500回をクリアした。さすがに、はじめてのことなので、すこし、からだがいたい。


実際には、最後に10回くわえて、計510スイングになった。調子がよかったので、落合博満さんのホームランの数だけ、スイングした。


だいぶふれるようになってきたので、今日は、スマホで、100スイングごとに1回10スイングを撮影してみた。撮影したものをみると、どうしても、スイングするとき、顔が、うしろにぶれてから、まえにつっこんでしまう癖があることがわかった。そうなっていることを感覚的に、薄々わかっていたけど、客観的にみてみると、おもった以上に、からだが前後に、ブレていた。


顔の位置については、落合博満さんや立浪和義さんが、「よいバッターは、みんな顔の位置がうごかない」と指摘している。しっかりと修正したい課題だ。


参考にしている落合博満さんは、どないしているか、連続写真をみてみると、トップの位置にバットがはいったときから、インパクトするまで、顎をひいていることがわかった。これでやってみようとおもった。顎のつかいかたについて気がついたのは、400スイングしたときくらいだ。スマホでとった動画をみてから、落合さんの連続写真と比較してみることをおもいたったのだ。


実際にためしてみると、どうだろう。


顎をひくと、うしろに、かるだをいれやすい。バットをトップの位置にまで、ひくとき、からだが、うしろにブレにくい。これによって、顔の位置のまえへのブレ幅もちいさくなった。また、バットをトップの位置にもってきたとき、まえの肩の線で、タメをつくることができた感じもあったので、ボールを見きわめやすくなり、変化球対応もしやすくなったのではないだろうか。


わりと理にかなっているんじゃないだろうか。


しかし、落合さんいわく、「歳をかさねるごとに、自分のバッティングは複雑になっていった。」ということなので、はたして、顎をひくことが、シンプルなバッティングのための動作であるかは、今後もかんがえなければならない。


500回ふれるようになってから、技術的なことへの感度が、さらにひろがりはじめたのが、とてもおもしろい。これまでは、顎をひくことの必要性など、おもいもしなかった。


バッティング技術は、奥がふかい。