どうして大学には、「できない人間をケアする場」がないのだろう。

「できない人間」の「できなさ」は、多種多様だろう。ぼくは、不勉強なので、多種多様のできなさの質的ちがいがわからない。「自分のできなさ」にちかいことはわかるが、それとちがう「できなさ」については、やっぱりわからない。

ことばがふさわしいかどうかすら、わからないが、たとえば発達障害などといわれる「できなさ」について、なんにもしらない。

正直なところ、個人の資質としては、「精神的なできなさ」については、においをかぎわけることくらいはできるが、それ以外のことはできない。

そこで、これに関して、いまの職場でちょっと気になることがある。

なんで、「できない人間」に関するしくみを、なんにももっていないのだろう。学校という組織なのだから、制度と装置をもってしかるべきなのではないだろうか。

なぜ、「できなさ」を十把一絡げにして、かつ、教職員個人の資質にまかせて、「できない人間」への教育をおこなうのだろう。

①現場の人間が、「できなさ」の多様さをかぎわけるスキルをきたえる必要がある。どんな「できなさ」なのか、みたてをもつちからである。
②においをかぎわけた現場の教職員が、まず、制度的にも、装置としても、なにかできないかを判断する。
③現場の人間ではどうにもできないと判断すれば、さらに上位の制度と装置を利用する。つまり、専門の部門に、紹介する。
④専門の部門にて、(あ)専門の部門が用意する学修の場でケアをすることが可能であるか、(い)外部の専門機関、たとえば病院などに、たよることが必要であるか、などを判断する。

素人でも、このくらいはおもいつくのに、なんにもないのは、弱者のきりすてを是としているのか、単にケアの精神がかけた無思慮なのか。

われわれが、やれることは、「ガッツだ、ガッツだ!」と根性論ではげますことか、「自分で、もうすこし努力しなさい」と自己責任論をぶつことか、どうしたって発生する退学者数%のうちのひとりだとわりきって「気づかぬふり」をするのか。

どっちにしたって、対応する現場の人間の精神は疲弊するとおもうのである。