「……といってくれたひとがいて、こんな自分のことを、人間として、うけとめてくれていたことが、とてもうれしかった。ありがとうって、気もちです。」
こんなふうなことを率直にいえる、こころのきれいなひとがいる。
このひとのこころのなかには、他者が具体的に、いきているように感じた。だから、ぼくも、自分のなかにいる「いきている他者」のことをはなした。
気がつけば、あっというまに、一時間がたっていたほどの、えがたき時間をすごしていた。
「こころの奥ふかくまで、ゆっくりとすすんでいきながら、かたりあう」という、ごくまれなことを経験していたのだ。
なにか、まとまったことをいいたいわけではない。おおきな何事かに、すごくちかづいているような気がしていて、それをつかみとりたい。そのために、ことばをついやしている。
だれかのこころのなかには、だれかがいきている。
上の体験から、このように、こころをとらえてみることができると、ふと、おもった。
こうおもうと、おもいのほか、自分のこころというものは、自分だけで、できあがっているものではなく、また、そもそも自分だけのものでもないのかもしれない。
「わたしのこころは、わたしのものだ」と、あるひとはいう。しかし、それは、わたしが所有しているという、単純な意味などでは、とらえきれないことが、こころにはある気がする。「わたしのこころは、他者のこころとのつながりのなかに、存在している」というと、こころというわかりにくいものを、すこし手につかんだような感触がある気がする。ただ、「わたしのものだ」と、いいきるには、どうすればよいのか、いまいちわからない。
とにもかくにも、こんな経験ができるから、この場にいくことをやめることができないのだ。
こころの奥ふかくをかよわせて、かたりあうことは、性風俗という場だからこそ、できるところがあるとおもっているのだが、どうだろう。
(2020/1/31)