一度たちどまって、0からやりなおそう。

やっぱりどうかんがえても、限界なので、我流でやるのをやめる。ひとりで、かんがえこまずに、たよることができるひと、協力してくれるひとに、たよって、やっていく。

とりあえず、ゆるくエスノグラフィーをまなべるところをさがす。自分のことをかくという技術のレベルアップをしたい。

それと、たぶん、今年か、今年度中に、いまの仕事をやめる。やめてから、支援団体か何かに、相談にいって、0からまともな社会参加の訓練をつむ。まあ、いまの仕事をやめずにできることは、やろうとおもうけど。

どうかんがえても、このままやっていても、ながつづきしない。修理しながら、すすんでいるけど、もう一度たちどまらないと、エンジンがやられる気がする。

前回の一時停止は、どうしようもなく、たちどまったけど、今回は自分の意志でたちどまるつもりなので、全然ちがう。

3年、4年やってみたけど、どうかんばっても、ふつうの社会には、なじむことができない。3年かじりついたので、あっていないことをこれ以上つづけても、無駄だろう。やっぱり、こういうかたちで社会に参加するのは、自分にはあっていなかったのだ。あきらめよう。

ポンコツなりに、やっていけることをやるしかない。最近は神経症ということばは、つかわないみたいだけど、こんな爆弾をかかえているのに、刺激のおおいところに身をおいていたら、かなわへん。

これでも、そこそこがんばったと自分としても納得しているので、社会のことをすこしは、しることができたとおもっている。できたこと、できなかったこと、しったこと、わかったこと、おもったとおりだったこと、おもいちがいだったこと、など、全部一度整理して、0からやりなおそう。職業訓練とか、就労訓練とか、そういうものを0からやった方が身のためだとおもう。

職場には、はやくつたえよう。双方にとって、その方がよいとおもうし。部門のお偉い人に、「相談があるので、ちかいうちに、すこし時間をください」とつたえてえるので、そのとき、全部いってしまう。

よく、このポンコツを3年もやとってくれたと、ほんとうに感謝している。しかし、どこもそうだろうけど、この職場も人材難なので、次第に期待もおおきくなってきた。ごまかしながら、その期待に、あわせにいっているが、どこかで破綻してしまう未来がまっているので、これも双方にとって、都合がわるいだろう。

野球観戦、阪神タイガース

いっしょにいっていたひとが、所用でさきにかえった。そのとき、8回表終了、2点差。その後、福留選手が、同点の代打2点タイムリーツーベースをうった。

福留選手がうった瞬間、球場は異様な熱気。つられて、けっこう興奮した。となりに、知人はだれもいないが、気がつくと、しらないおっちゃんとハイタッチしていた。

福留選手のもうすこしでホームランのヒットには、とても感動したのだけど、それをみしらぬ誰かと共有できたところに、球場での体験的な価値があるのだとおもった。

10数年ぶりに、阪神を球場で応援しているけれど、すごい一体感や。

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ひきこもりの感覚、ふつうのひとの感覚。

今朝の朝日新聞の朝刊の一面に、「ひきこもりのリアル」と題して、「親の死後 僕、どうなるんや」って、どデカく、かかれていた。すこしまえの過去の自分だし、すこし未来の自分だとおもうので、ひとごととは、おもえなくて、「父親不在」とか、「父性のない社会」とか、そういうのをカギにして、かんがえをまとめてみようとした。あれこれと、ノートにかいてみたが、結局、まとまらなくて、やめた。

まとめようとしてみたが、こまぎれの想念がポツポツとでてくるだけで、まとまらなかった(まとめられなかった)という事実のことをかんがえてみたい。

たぶん、こういうたぐいのことは、社会的な視点にたつと、問題提議をして、課題解決のために、かんがえるべきことなのだろうとおもう。が、個人にとっての、主観的なところについての問題として、それらをとらえるならば、とやかくかんがえることは、むしろ無用のことなのではないだろうか。かえって、かんがえることによって、不利益をこうむるのではないかとさえ、おもう。

いま、ちょうど風邪をひいていて、体が気だるい。その気だるさが、根気のない性格的な特徴をさらに強化しているようで、「しんどい。かんがえるの、やめた。」と意思決定を容易にする。ためらうことなく、というよりも、ほんまに気だるいので、ためらう余裕もなく、かんがえるのをやめた。

「なんのために、いきるのか」と人生に目的をもとめることや、「どのように、いきるのか」と人生に意義をみいだそうとすることは、「生存することに不自由することのない」ような裕福な社会にいきているから、うまれてくることなのだというのは、ただしいことのようにおもう。

風邪をひいているときの方が、ひとや社会との距離のとりかたが、すこし上手な気がした。気だるくて、余計なことをかんがえる余裕がなくて、かんがえるのをやめることで、その「かんがえるのをやめた」分だけ、こころに余裕をうむような感じがした。

ひとついえることは、"ひきこもる"人間は、ひとや社会との接点を四六時中、さがしている。「どうすれば、なんとなく、ボーッとしていても、社会に所属できていたあのころのように、もとにもどれるのか」などと、ずっとかんがえている。これは、意識しているときもあれば、無意識におこなわれているときもある。反対に、社会に"ふつう"に所属しているひとたちは、そういうことをほとんどかんがえていない。それが、たぶん"社会人"としての健全さなのだろうとおもう。

"ひきこもる"人間と"ふつう"の社会人とのあいだには、おおきな溝がある。どちらが、わるいとか、そういうことは問題ではないとことわっておくが、この溝の存在に気づいているのは、"ひきこもる"人間の方なのは、たしかだとおもう。"ふつう"の社会人は、皮膚感覚的にも、なんにも気づいていないはずだとおもう。

そういう不感症的な社会から、「意をくんでもらえない」ということのくりかえしに、傷つき、つかれきったさきに、「ネガティブなあきらめ」があって、かなしい結末がおきるのだろうとおもうのだ。

自分がなにものであるかを横において、俯瞰的にものをいってみると、たぶん、「"ひきこもる"人間と"ふつう"の社会人」は、どちらもすごく幼稚で、子どもなのだ。「父親不在」だから、おとなになりきれていない人間たちの悲劇なのだとおもう。

ぼくは、ここで、梅棹忠夫の「あかるいペシミスト」ということばや、司馬遼太郎の「美しき停滞」ということばをおもいだす。

ぼくは、これらのことばが意味するのは、上のような現象への批判的態度だとおもうのだ。これらは、「ネガティブなあきらめ」とは、まったく別次元の「ポジティブなあきらめ」だといえるとおもう。前者はなんか「-1+-1=-2」で負がふかまるながれだが、後者は「+1+(-1)=0」で、無とか、空とか、なかなか自由な感じがする。

以上。まとまりなく、おわる。まとめるつもりは、はじめからない。

自分の心身のことを表現することで、心身を理解する感覚がとぎすまされる

調子のよかったすこしまえの心身の状態と比較すると、いま、けっこうしんどい。

そういうことは、よくありえることなので、しんどいことには、あまりこまっていない。

こまっているのは、「なんで、ちょっとまえは、調子がよかったのに、いま、からまわりしているんや?理由はなんだ?原因はなんだ?」と、無意味で、あてもないことをかんがえて、堂々めぐりしてしまっていることだ。

もとにもどってしまっている。この思考は、ダメだ。調子がよくなる以前のときの形だ。治癒のために、Facebookに、ああだこうだと、かきはじめる、もっと以前のときの状態だ。

しかし、もとにもどってしまってはいるが、質的には、おなじものではない。すぐに、こうして気づくことができていることが、以前とはまったくちがう。この点で、まちがいなく成長している。

いまは調子がわるいので、ひとをたよりながら、暴発させないように、うまくつきあっていく方法をさぐつているときなのだ。あせってはいけない。

こうやって、気のむくままに、ことばにしていることによって、まちがいなく心身の状態をつかむ能力はレベルアップしていると実感している。危険地帯の二歩手前くらいで、気づくことができている感じがしている。もうすこし精度をたかめたい。そのさきに、社会性を身につけるということもある気がしている。

あきらめが肝心。すべてのことが心底どうでもよいとおもう立場。

phaさんみたいに、首尾一貫して、「ダルい」って、いえるひとには、あこがれるし、尊敬してしまう。

人生にゆとりを生み出す 知の整理術

人生にゆとりを生み出す 知の整理術

ぼくも「ダルい」って、はっきりといってみたい。正直なところ、はたらくのは、ダルいもの。

だけど、「ダルい」って、いってしまったら、自分はおわってしまうような気もしている。自分をかろうじて、ささえているものは、「ダルい」っていわずに、がんばりつづけることのような気がしているから。

いきていること自体がダルいのに、だけど、いきていくためには、がんばりつづけないといけないって、おもわなくてはやっていけないところに、ぼくのしんどさがある気がする。

すごく優柔不断なのだ。だから、たぶん、phaさんのことが気になるのは、「ダルい」って、はっきりといってしまえる一貫性に、つよくひかれているからなのだとおもう。

かっこよくいうと、ジキルとハイドみたいに、相反するふたつの人格が、ぼくのなかにはあって、分裂している。そのあいだに、たたされている「ぼく」は、「がんばる」を選択するとハイドがぐずって、「ダルい」を選択するとジキルがかなしむことに、翻弄されている。

このようなぼくが、唯一すくわれて、楽になる道は、たぶん「あきらめること」なのだと、最近はおもう。「心底、どうでもよい」って、おもえたときに、すごく自由につつまれているような感じになる。こころも、からだも、あたまも、おだやかで、するどく明晰な感じになる。

「ダルい」とか、「がんばる」とか、そういう感じのことをいっさいすてて、まえにも、うしろにも、うごかないで、もうどうでもよいっていう立場になったとき、ぼくはぼく自身のなかに、なにか一貫性のようなものを感じた。

でも、最近は、「エスノグラフィを勉強したい」とがんばりはじめて、「いまの仕事をやめたい」とダルくなりはじめたから、すごく心身やあたまが、にぶくなって、めっちゃしんどくて、つかれがたまってしまっている。

はじめから、すべての人生に目的はないので、がんばることも、ダルくなることも、どうでもよいことなのだ。時のながれに身をまかせて、毎日、部分的に、たのしんだり、かなしんだりしながら、いつのまにか人生のおわりをむかえるのだ。

人生は、あきらめが肝心だ。「あらゆることが、心底、どうでもよい」と納得できたさきに、ひらけていく未来があるようにおもう。

大学職員という仕事で、気になったこと

関西の中小私立大学で、職員をやっている。

事務方の職員だからこそなのか、学生のことをちょっと客観的にみることができる気がしている。それで、気づいたのは、入学してすぐに、「くらい顔」をして、何かにつまずいているような学生が、けっこういるとということだ。

「入学した時点で、すでにやめたい」という感じ。第一志望におちて、そんな感じの学生もいるけど、なんかそうでもないのも、けっこういる。

そんな学生と、ぼくは積極的にコミュニケーションをとりにいく。だいたい、池のまわりのベンチに腰かけていたりするので、みつけやすい。あとは、文明の利器(出席率管理データ)をつかって、そういう学生をピックアップして、修学指導などの業務の延長で接触している。

このような学生をみていて、よくもおもうのは、つまずきの原因は、家族関係にあったり、高校や中学校などからずっと蓄積していたりするということだ。

これは、大学教育では、どうにもできないとおもう。大学の教職員たちは、その学生がしっかり卒業できるように、悪戦苦闘しているが、やっぱり、ほとんどは、そのつまずきの原因を解消することはできずに、退学してしまう。

大学で3年ちょっと、はたらいているけれど、問題意識の持ち方として、なんか、高校生を対象に、「学問をたのしむことと人生を選択すること」っていうコンテンツというか、テーマで、仕事をしてみたい気がしてきた。

今後も、気がむいたときに、こんな感じで、ぼく自身がどんな仕事をしたいのかをつづっていって、明確にしてみようとおもう。

関係をもつことができない理由~なんでひとは、ひきこもるのか~

エスであれ、ノーであれ、自分の「こうしてほしい(してほしくない)」、「こうしたい(したくない)」ということの意を、他者にくんでもらえるという経験が、他者との関係性をもつために必要な健康をはぐくんでいくのだとおもう。

「こうしたいことを"あのひと"にいったけど、やらしてもらえた!」
「したいけと、それはできないといわれた。しかたがない。」
「こうしたくないけど、これはしなければならないみたいだ。」

「したい(したくない)」という願望、欲求、希望などが、みたされても、みたされなくても、それはほとんどどうでもよいことなのかもしれない。

「意をくんでもらえた」という「納得」があることこそが、重要なのだとおもう。それによって、ひとは社会性を身につけていくのだとおもう。

なんで、ひきこもる人間とか、結婚しない人間がおおいのかというと、彼らは、たぶん上のような経験がほとんど蓄積されていないからだとおもう。

ひきこもりも未婚も、わるいことだとはかんがえていないが、主観的には、そういうことをすべてそつなくできる完璧人間に「なりたい」という願望がある。こじれているのは、その意を社会的にくんでもらえたという納得の経験が、希薄だからだろうとおもう。