目のみえかたひとつで、意識はかわる。

きのう、メガネを新調した。

まえのメガネでは、視力が0.5もないくらいだったが、あたらしいメガネは1.0に視力を調節したので、よくみえる。

近視はあんまりすすんでいなかったはずだが、とにかく乱視がひどくて、よくみえていなかった。あたらしいメガネをかけて、視界がとても鮮明なので、ちょっとおどろいている。

ひとの顔が、よく識別できる。シワまで、みえる。これほど鮮明に、ひとの顔をみたのは、ひさしぶりだったみたいだ。「電車で、むかい側にすわる乗客は、こういう顔をしているのか」と、はじめてみる風景のようであり、にわかに、世界がひろがったような気がしなくもない。

ただ、よくみえることは、たのしいことばかりでもないような気がする。

いままで、みえていなくても、十分に生活できていたわけなので、みなくてもよいものまで、みているのではないかとおもったり。情報過多の時代、みるものは、すくなくてもよい気もする。

また、よくみえる分だけ、他人の行動が、いちいち気になる。電車に、ひとをおしわけ、わりこんで乗車してきた人間を、そのにくたらしい表情まで、はっきりと認識してしまうため、不快感がわりましになっている気がした。

まあ、そういう屁理屈は、この際、どうでもよくて、乱視がない視界というのは、こんなにも、つかれないものだとは、気づかなんだ。

なんか視界が良好になって、おおげさだが、実存的に、自分という存在の現在地がかわった気がしているので、たぶん、目のみえかたひとつで、意識はけっこう影響をうけている気がする。

たぶん、身体感覚って、そういうものなんだろうとおもう。

最近の自分の心身の状態について。

自分の精神状態が、よくわからない。

活動意欲はめっちゃあるのに、からだがうごかない。

振休がたまっているので、最近は意識的に、よくやすんでいる。過剰な労働のために、7月ころから、体調をくずしてしまい、いまもあまりよくないので、ちょうどよい。

いまは、テレビで、アラレちゃんのアニメがやっているので、ゴロゴロしながら、みている。

河合隼雄は、たしか、「ひとは、なにか創造的活動をするまえに、精神的に、ふかくおちこんで、活動がにぶることがある」みたいなことをいっていたけれど、ぼくのいまの状態が、それであれば、よいのだけど。

「活動意欲はめっちゃあるのに、からだがうごかない。」ということについて、もうすこし、正確にとらえたい。

「からだがうごかない」のは、いまの職場での指示や命令でやらされている仕事に対してだ。自発的に、主体的に、「これは仕事だ」とおもっていることに対しては、からだはうごく。活動意欲は旺盛なのは、後者に対してだ。

うまいこと調整できなくて、職場では、まるで、ダメサラリーマンだ。「上司からの命令で、やらねばならない"過剰な"仕事」をやることができていない。

反抗するつもりはないのだが、やっていることは、まったく反抗のようにおもえる。

こまったなあ。

できていたことが、できなくなってきている。やらされ仕事でも、せめてプラス1か、2くらいはできるようにとおもい、がんばってきたが、それができなくなってきた。

心身が、未知の感じになってしまっているような気がしていて、ずっと変な感じだ。

自分の気持ちをコントロールするための練習について。「感情表現が苦手」とのつきあいかた。

気分とか、気もちとか、感情に分類されるものは、「感じる」ということをしなければ、表現できないとおもうのである。「かんがえる」ということや、論理などという技法に、はしったところで、よほどの文才がなければ、感情は表現することはできず、相手につたわらないようにおもう。

このようにおもうので、たとえば、たのしかった経験をつぶさに記述して、その記述の最後に、「たのしかった」とか、「ちょっぴりかなしくもあった」とか、そういう簡単な感情表現をするだけで、かえって、しっかり感情を表現できて、気分のことや気もちのことなどが、相手につたわるとおもうし、自分でも自分の感情の質感がわかるとおもうのである。

これは、なにもないところからのおもいつきではなく、司馬遼太郎梅棹忠夫のエッセイの比較をとおして、みえてきたことなのである。

司馬遼太郎梅棹忠夫の文章表現は、全然ちがうが、その文章から、感じられることは、きわめてちかいようにおもえる。思想的にちかいというのもあるが、第一に重要なのは、表現のしかたがちがっていても、思想を伝達するために必要とおもえる、感情に関する表現をどちらもしっかりできていることである。

これについて、司馬遼太郎のような、表現することに才のある人間は、やや難解とおもえるような、いいまわしやことばをつかうこともあるが、梅棹忠夫は、いいまわしもことばも、まったく平易である。梅棹忠夫の文章が、平易だということは、ぼくがいうまでもなく、よくいわれることである。

うえにかいた、「たのしかった経験をつぶさに記述して、その記述の最後に、『たのしかった』と、簡単な感情表現でしめる」という表現方法は、梅棹忠夫のエッセイの文章にならったものである。ぼくは、こういう文章をかくことをもっと訓練したいし、教育の現場に、ひろく浸透させたいとおもっている。

文豪でもない平凡な人間には、ことばたくみに、自分の感情表現をできないということは、あたりまえの話なのである。そもそも、日常会話のなかでつかっている感情表現は、簡単なことばばかりではないだろうか。

たとえば、「今日、友だちと、かくれんぼをして、ぼくはずっと、鬼にみつかることなく、かくれることができたので、たのしくて、うれしかった。でも、ずっと、ひとりだったので、ちょっぴりさびしかった。」というのが、基本のかたちで、よいとおもう。あとは、もっと具体的に状況の記述をし、その時々の気もちを平凡なことばで、あらわせば、十分だとおもう。おそらく、これのつみかさねのさきに、自分を理解するということがあるのだとおもう。多少、飛躍するが、つまり、これが教養を身につける基礎訓練なのではないだろうか。

自分の気もちについて、たとえば、「自分の気もちは、ふたつにわかれているとおもえる。」という内面にある気もちわるさを分析して、その原因などをかんがえるのも必要だとおもうが、平行して、その気もちわるさなどについて、多少、乱暴にでも、感情の表現をやることが必要であるとおもう。つまり、これが、ぼくが、インターネットをつかって、SNSなどで、やっていることなのである。

自己実現するために必要不可欠な感覚。

今朝、インターネットにある、とあるひとの日記をよんで、気づいたことがある。

日記にかかれていたのは、つぎのことばである。

「最近、かんがえる時間が、おおくて、自信がなくなっていたので、お話をたくさんすることができて、たのしい時間をすごせました。」

ここには、重要な感覚が、ふたつかかれているとおもう。

ひとつは、「かんがえる時間が、おおくて、自信がなくなる」ということであり、ふたつは、「お話をたくさんすることができて、たのしい」ということである。

一部をきりとった、うえのことばだけでは、文脈をよむことができないけれど、日記全体をながめていると、かんがえていたこととは、「自分のこと」であると想像できる。主客について、なにもかかれていないので、これも想像するしかないけれど、おそらく、「ひとりで、かんがえて」、自信がなくなり、「誰かとお話をして」、たのしくなったのであろう。

ひとりで、「自分のこと」をかんがえすぎると、自信がなくなるのは、たしかである。人間は、他者とのまじわりのなかで、自分の現在の位置をしる。だから、ある程度のところまで、ひとりで、自分のことをかんがえたあとは、他者にむかって、うちあけるなり、共有するという経験をもたなければならない。そうしないと、自分の位置をみうしなってしまい、自分のかんがえや気もちが正常なのかどうかが、わからなくなり、自分を信じることができなくなってしまうのである。

この日記の後半部であるが、「お話をたくさんすることができて、たのしい時間をすごせました。」というところがよい。この感覚は、とてもたいせつだ。はなすという身体的な行為をたのしむことができるという感覚をたいせつにしたい。

そして、あとひとつ、つまり、3つ目の気づきを、ここで、おもいついた。

このような感情や思考をもった感覚を、しっかり自覚していて、それをインターネットという社会的な場に、文章化したかたちで、ことばにして、表現するという感覚をもっていることも、とてもたいせつだ。

この3つの感覚をもっているということが、自己実現するために、必要不可欠なのではないかと、ぼんやりとおもったりしている。

ともかく、うえの日記から、ぼくとおなじ感覚を、ちゃんと他者ももっていて、共有できることなのだとしることができて、よかった。この感覚をもっと鋭敏にして、言語化できるようになれば、なにかの役にたつんだと、信じてみようとおもう。

天満(大阪)で、めっちゃおいしい串かつ屋さん「串忘」をみつけた話。直感を信じることのたいせつさとか。

街あるき、そんなに精力的には、やっていないけれど、ゆるくでも、つづけてきたおかげか、なんとなく嗅覚はみがかれているような気がした。

その嗅覚のおかげで、天満で、おいしい串かつ屋さんを発見したのである。「串忘」という名の店である。シェアしておこう。
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創作串かつみたいな系統のお店やったので、価格的には、多少たかい串もおおかった。「ソースはキャベツにつけるくらいです。基本は塩で、めしあがりください。」と説明をうけた。一晩、白ワインにつけこんだ鶏の串かつがあったり。たべていないけれど、イクラの串かつがあって、1本700円くらいしていた。ただ、「ひよこセット」なるものがあって、ドリンク+串かつ7本が、1000円だった。はしご酒の一軒目には、もってこいである。

どうして、この店をしったのかというと、偶然である。

このあいだ、ぼくが幹事で、天満で、お酒をのみあるくという企画をやった。店えらびは、インターネットをつかわずに、やることにして、ひとりで集合時間より、さきに現地いりして、あるきまわって、さがした。

それで、商店街をブラブラとあるきまわっていたら、たまたま、みつけたのである。

はじめは、なかをのぞきこんだものの、とおりすぎた。しかし、なんか、ひっかかるなあと、おもって、ひきかえして、店のマスターに、声をかけた。

「7人って、はいれますか?17時くらいになるんですけど。」

「いけるよ。予約する?」

「うーん。まだ、ちょっときめかねていまして。あとできたとき、あいていたら、はいります。ありがとうございます。」

などと、ことばをかわして、二度目も、とおりすぎた。

それで、100mくらい、お店からはなれたあと、「やっぱり、ここに、はいらなあかんわ!」と、なぜかおもいなおして、ちょっとかけ足で、ひきかえして、「すみません。もし、まだ、予約がほかにはいっていませんでしたら、17時から、予約おねがいします!」と、あわてて、おねがいした。

予約は、無事にできて、これで、お店えらびは終了した。

なんとなく、おっ!と直感したお店が、みごと、おいしい料理を提供してくれたのは、うれしかった。やっぱり直感を信じるのって、たいせつだ。

継続するコツ~ゆるくつづけることのたいせつさ~

継続というのは、がんばることで可能になるのではない。

むしろ、がんばらないことで可能になるのだ。

ブログを7ヶ月、ジョギングを1年間、つづけてみて、気づいた。

たとえば、今日つぶやいた、とりとめのないツイートをよせあつめて、それらをコピペして、ブログにはりつけても継続していることになる。また、ジョギングについても、500mだけ、はしっても、継続は継続なのだ。

このような意識のもちかたは、とてもたいせつだとおもう。

なぜなら、どんなかたちでも、ある程度の時間をかけて、一定の量をこなせば、なにかしらのよい結果はついてくるからだ。

この結果は、たとえちいさくとも、自信になる。そして、その自信が、たのしさをうみ、継続するちからを倍加させるようにおもう。

ぼくのブログは、特にたいしたことをかいていないけれど、毎日ゆるくかいていたら、1ヶ月ほどで、デイリーで100アクセスくらいはでてくるようになった。そうすると、たのしくなってきて、精力的に、ブログをかくことができるようになった。いまでは、2ヶ月連続で、月間2000アクセスあるブログになった。ちょっとずつだけれど、成長していることを実感している。

運動もおんなじだ。
はしりたいときに、はしっていたら、腹囲が1年で3cmへった。このように結果がでたことが、うれしくて、「もうすこし、はしってみれば、どうなるのだろう?」と、好奇心がでてきて、精力的に、はしるようになった。週3、4日、4~5kmはしるようにしたら、いまでは、7kmくらいだったら、1km5分台で、はしることができるようになっている。この次は、10km走に、チャレンジしてみようと、すこしおもっている。

ゆるく継続すること、おすすめします。

参考①
参考になりそうな本をのせておきます。ぼくは、以下の本をよんでいるわけではないけれど、phaさんのほかの本とか、Twitterとか、ネットの記事とかを参考にして、自分なりの「ゆるいがんばりかた」をいま、開発しています。

がんばらない練習

がんばらない練習

しないことリスト (だいわ文庫)

しないことリスト (だいわ文庫)

参考②
この記事は、Twitterで、つぎのようなリプをおくったときに、おもいついたことを味つけしたものです。ぼくなりのやりかたの足跡をのこしておきます。

ウソつきの変なひととして、あつかわれたことがくやしかった。

同業者と、教育について、お酒の席でしゃべったとき、「あなたのいっていることは、主観やん。おもいこみかもしれませんやん。」っていわれたことが、最近のあいだに2度ほどあって、とてもくやしかったので、もっと勉強しようと、ちょっと火がついたような感じになっている。

ぼくが、日ごろ、学生とのかかわりあいのなかで、みてきたこと、きいてきたことから、「大学は、せめて、こういうことをできるようにならなあかんとおもう。そのための制度と装置をかんがえる必要がある。うんぬん。」と、しゃべったときに、冒頭のように、「そりゃ、おまえのおもいこみや。」といわれた。

つたえかたが、まずかったのはある。「日ごろ、みてきたこと」をしゃべらずにいたのもまずかった。また、この酒の場で、日ごろみてきたことから、おもいつきで、くみたてて、しゃべっていたのも、よくなかった。この辺の手ぬき工事のために、ぼくの話には穴がおおくて、客観性がかけていたのかもしれない。

とにかく、「あなたのいっていることは、おもしろいけど、無理や。おもいこみや。おもいつきや。そんなことは、できない。」などといわれて、まるで、変なことをいっているホラふきをみるような目でみられたことや、そういう空気をつくってしまったことが、くやしい。

ぼくのかんがえには、いつも多少の飛躍があるのは、たしかだとおもう。けっこう、おもいつきで、その場の感覚でやることもおおい。しかし、基本的には、自分の目でみて、肌でふれて、感じたことから発想して、ものの本でしらべて、人にきいて、くみたてているつもりなので、そこまで、荒唐無稽であるとはおもっていない。

事実のうえに、自分の良心のゆれをのせているから、客観性がぶれているようにもおもうが、しかし、そのこともふまえたうえのことであるから、ぼくのみた事実は、やっぱりひとつの事実であるとおもう。

まるで、ぼくが、ウソつきか、世間しらずの妄想人間みたいであると、その場の空気がかわっていくことを感じたことが、とてもくやしい。

この点だけは、切実に、がんばらねばならない。