からだの感覚をことばで表現することの重要性。落合博満の打撃技術の本から、まなぶ。

よんだひとが、「なるほど、そういう理屈か!」と納得できたり、動作をイメージできるくらいの説得力をもたせるかたちで、自分のからだの感覚について、ことばにして表現することができる。

これは落合博満という人間の強烈な個性である。

かれは、野球選手として超一流だけど、からだの感覚を言語化するということについても超一流なのである。

ぼくが、野球がすきなのもあるけど、この本は、ぼくが身につけたいこと、理解したいことの基礎的なテキストになるものだと、ほとんど確信している。

小中高と、体育教師は、まるでとんちんかんな精神論みたいなことしか、おしえてくれなかったし、くわえて、学校教育用の教科書にも、ここにかかれているような「からだの感覚をことばにして、理解して、つかむ」ということの意義は、気づくようには、かかれていなかった。

ぜひ、学校教育の体育のおかげで、運動嫌いになったひとたちは、野球に興味があるなら、一度、Wikipedia落合博満の成績をみて、YouTubeで打撃をみて、そのすごさをしったうえで、この本をよんでみてほしい。野球に興味がないひとも、よんだらよいとおもう。きっと、たのしく運動するきっかけになるとおもう。

極端なことをいってしまうと、学校の体育教師なんか、たいしたひとはおらんねん、ということである。頭でっかちな精神論か、ことばたらずの技術論しか、やれないのだ。特に、偏差値ヒエラルキーの上の方にいる進学校の生徒などは、注意してもらいたい。進学校の教師は、半端なことしか、おしえられないのに、嘘を、権威のちからをかりて、ほんとうのように、ごまかしてくるので、うっかりだまされてしまうから、たいへん危険なのである。

このひとらにつきあうのは時間のムダだから、落合博満のこの「身体感覚を理解し、つかむことに関する最良のテキスト」をだまって、しかし、堂々と体育教師のまてで、よむべきだろう。その行為が、からだの主体性を獲得するための第一歩なのである。

落合博満 バッティングの理屈

落合博満 バッティングの理屈

生活の、人生のゆたかさのこと。プロ奢ラレヤーさんの『嫌なこと、全部やめても生きられる』をよみながら、かんがえています。

人間には、ボーッとして、なにもかんがえずにいる時間が必要だ。

ひとりで、酒をのむ時間が、ぼくには必要なのだ。

たまにいく居酒屋で、ほんとうにひとりで、酒をのんでいる。まわりに、だれも客がいない。

きずしだけでは、ものたりなくて、牛肉のたたきを追加した。めずらしく、贅沢にやっている。
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生活のゆたかさをかんがえている。

ぼくにとっては、やっぱり、ながい時間をつかって、のんびりとお酒をのめるのは、ゆたかさのひとつだとおもう。今日は、贅沢をして、一人前700円もする、牛肉のたたきをたべているけど、いつもは、そんなものはいらない。やすい発泡酒でも十分だし、場所さえ、おちつければ、つまみはポテトフライでも、オッケーだ。

生活のゆたかさをおいもとめて、運動をしている。道具には、こだわらない。素振りだって、小学生のころにかった金属バットをつかっている。ちょっとグリップがほそくて、手がいたかったけど、新聞紙をまいて、ガムテープで固定することで、解決した。お金なんか、かけなくても、十分に、運動をたのしめる。そもそも、プロ野球で打率.300をうてるバッターになることなど、めざしていないわけで、これで運動をたのしめているのだから、ほんとうに十分なのだ。
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こうして、Facebookやブログに、適当にかいていたら、ほんとにたまに、だれかがリアクションをくれるし、それで十分たのしめる。今度、バッティングセンターに、いっしょにいきましょうと、さそわれたし。そのとき、打撃のコツをおしえてもらおうと、けっこうたのしみだ。

素朴な感想として、こういう感じで、ほそぼそとやっていることも、この人間社会にとって、必要なこと(仕事)だとおもうので、「人格のない歯車」として、むくわれないあつかわれかたをされて、消費されたあとは、すてられるような働き方は、しなくていいと、決意しはじめている。

ぼくがやっていること、やろうとしていることは、お金はうまないだろうが、人間にとっては、意味のあることだろうとおもっている。

よっぱらいはじめているから、脈絡がない。

べつに、金属バットでなくてもよいのだ。鉄の棒を素振りしていてもよい。素振りしているだけで、身体感覚のなにかが、つかめはじめている、たのしさをおぼえはじめているのだから。

嫌なこと、全部やめても生きられる

嫌なこと、全部やめても生きられる

  • 作者:プロ奢ラレヤー
  • 出版社/メーカー: 扶桑社
  • 発売日: 2019/12/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

精神的な修行にむいているジョギング。身体感覚を合理的にとらえることにむいているバットの素振り。

ジョギングばかりをするのは、あきてきたので、ここ2か月くらいは、筋トレとバットの素振りも、わりとがんばっている。

最近になって、身体をおおきくつかって、バットをふりきることができるようになってきた。打ち方として、ただしいのかは、皆目わからないが、ちからがついてきた感じが、けっこうある。阪神の大山にも、ぼくのように、おおきくバットをふりきってもらいたいと、妄想して、自分がなにものかであると錯覚してしまうくらいには、学校教育のせいで運動ぎらいになった自分史のなかでは、ちからがついてきている。

バットをふるという動作は、なかなかおもしろい。落合博満など、プロ野球選手の身体感覚をきいたり、よんだりしながら、実際にバットをふっていると、おもしろい。このおもしろさを丁寧に言語化していくと、さらにおもしろいことが、おきそうだとおもっている。

ほんとうは、素振りだけでなく、ボールも、うってみたいのだけど、ちかくにバッティングセンターがないので、できずにいる。余談になるが、地元にあったバッティングセンターは、いつのまにか廃業していた。去年ひさしぶりに、いってみると、広大な駐車場になっていた。少子化と野球人口の減少が、実際にも、おきているんだと、こんなところで実感することになるとは。30年以上つづいていた場所なので、まさか廃業するとは、おいもよらなかった。ひとつ、思い出がきえてしまったわけである。

このあいだ、というか、昨日、職場の哲学者とお昼ご飯をたべながら、身体感覚の話になった。「車を運転していて、左側の幅の感覚が、どうもつかめない」という話題になり、空間把握能力のことについて、話がおよんだ。そのときに、ぼくは、ふと、バットで素振りをしていることをはなした。哲学者いわく、「バットをふることは、空間を把握する能力を向上させるために、よいかもしれない」。

どうやら、運動、身体をうごかす、などと、ひとことでいっても、多種多様なものがあるみたいだ。たとえば、ジョギングは、内向的なもので、精神の修業にむいている。宗教書や哲学書あるいは思想書をよみながら、ジョギングをすることは相性がよい。素振りは、そうではなく、また別のものだ。

やってみた感想としては、身体感覚を向上させるのは、ジョギングより、素振りが適している気がする。素振りは、あまり精神が、からんでこない。素振りは、けっこう技術的なもののようにおもえる。身体を精神ときりはなして、モノ化して、道具として、どう合理的につかえるかという方向にむかう感じがある。

素振りのことばかり、かんがえてしまって、筋トレのことに、ふれていない。

いまのところ、筋トレは、バットスイングをはやくするための手段にすぎない。だから、しんどい筋トレを、それ単体で、やる気にはなれない。ぼくにとっての筋トレとは、こんな位置づけなのだ。

お酒をのんだあとに、おそってくる孤独感

懇親会とかで、お酒をのみすぎたときの翌日は、悔恨の念がおしよせてくる。

「お酒なんか、のまなければよかった」

なにに対しての悔恨の念なのかというと、「しゃべりすぎた」ということに、つきる。「しゃべりすぎた」とおもうたびに、孤独感がつよまってきて、あせりにちかい不安が、身体のなかをかけめぐる。この感覚が、たいへん不快だ。

その場には、いろんなひとがいるのに、ほとんど主人公であるかのように錯覚し、悦にいったいきおいで、自分ばかりがしゃべりつづける。その場を撮影でもしてみれば、客観的には、大差はないのだろうけど、主観的には、ひとりで、その場の時間をうばいつづけていたような気がしてならない。

しらふのぼくは、目の前の人々と対話をかさねて、ふかく通じあいたいと、ねがっているのに、よっぱらってしまうと、「我が、我が」と、自分のペースで、すすめたくなってしまう。

お酒には、それをのむひとの「とざされた、こころの扉」をひらくちからがあるとおもうが、度がすぎると、ひらかれたこころの奥ふかくまで、すすんでいって、「精神世界に没入する」作用があるのかもしれない。

お酒を悪者にしたいわけではない。
自分のこころのよわさや未熟さをなげいているのだ。

お酒は、きっと孤独の代物なのだ。
「おとな」がたしなむものなのだ。

性風俗という、「こころ」の問題がみえやすい場のこと。何かたすけになれないだろうか、そんなおせっかいは不要?

性風俗という男性社会のどまんなかで、性というやっかいなものをあつかいながら、「リピートはあるか」、「評判はどうだ」などと、客との関係性に苦心するということを、20歳前後の人間がやっているというのは、けっこう酷なことだとおもう。きっと、まじめな人ほど、つぶれていくんだろうと想像する。

Twitterの風俗関係のアカウントをみていたら、わかるけど、病んだアカウントがけっこうおおい。臨床心理士のところにやってくる風俗ではたらく女性は、けっこういるときく。なにか、こころの問題が、彼女らには、あるんだ。こころがつぶれてしまったひとがあつまってくる場所なのか、あるいは、やむにやまれぬ事情であつまったマジメなひとが、つぶれていってしまうのか。

風俗ではたらいている女性のなかには、そこまでお金をかせぐ必要はないようにおもえるのに、「なんで身も心もけずってまで、つづけるの?」と、こっちが不安になってしまう人が、たまにいる。そんな人には、何かたすけになれないかとおもう。

だけど、客はお金をはらって、サービスをうけることしかできない。お客は、そこに首をつっこんで、おせっかいすることはむずかしい。

とはいうものの、おせっかいのぼくは、もし、こころのことで、なにか問題をかかえているひとが、風俗という現場にいるのだとしたら、何かたすけになれないかとおもう。

なぜなら、彼女たちのなかには、たとえば、セラピストのように、精神的な面での福祉の役割をになっているひとがいて、彼女らと、かかわることをとおして、ぼくだけでなく、すくわれているひとが、すくなからずいるという事実があるからだ。

だから、何か、役にたちたい。
そんなことをおもいながら、ぼくは、たまに、風俗にいくのである。


性風俗という、光と闇の現場にご興味おありのかたは↓

女子大生風俗嬢 若者貧困大国・日本のリアル (朝日新書)

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性風俗のいびつな現場 (ちくま新書)

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こころのこもったことばで、かたりあう。

「……といってくれたひとがいて、こんな自分のことを、人間として、うけとめてくれていたことが、とてもうれしかった。ありがとうって、気もちです。」

こんなふうなことを率直にいえる、こころのきれいなひとがいる。

このひとのこころのなかには、他者が具体的に、いきているように感じた。だから、ぼくも、自分のなかにいる「いきている他者」のことをはなした。

気がつけば、あっというまに、一時間がたっていたほどの、えがたき時間をすごしていた。

「こころの奥ふかくまで、ゆっくりとすすんでいきながら、かたりあう」という、ごくまれなことを経験していたのだ。

なにか、まとまったことをいいたいわけではない。おおきな何事かに、すごくちかづいているような気がしていて、それをつかみとりたい。そのために、ことばをついやしている。

だれかのこころのなかには、だれかがいきている。

上の体験から、このように、こころをとらえてみることができると、ふと、おもった。

こうおもうと、おもいのほか、自分のこころというものは、自分だけで、できあがっているものではなく、また、そもそも自分だけのものでもないのかもしれない。

「わたしのこころは、わたしのものだ」と、あるひとはいう。しかし、それは、わたしが所有しているという、単純な意味などでは、とらえきれないことが、こころにはある気がする。「わたしのこころは、他者のこころとのつながりのなかに、存在している」というと、こころというわかりにくいものを、すこし手につかんだような感触がある気がする。ただ、「わたしのものだ」と、いいきるには、どうすればよいのか、いまいちわからない。

とにもかくにも、こんな経験ができるから、この場にいくことをやめることができないのだ。

こころの奥ふかくをかよわせて、かたりあうことは、性風俗という場だからこそ、できるところがあるとおもっているのだが、どうだろう。

(2020/1/31)

プロ奢ラレヤーさんの『嫌なこと、全部やめても生きられる』をよみながら、おもったこと。「納得できることだけやって、いきる」という、こころの道しるべ。

「すきなこと」とか、「やりたいこと」って、わかりにくい。そもそも、すきなことも、やりたいことも、あまりない。

もちろん、局面々々では、すきも、やりたいもあるけど、そういう感情のエネルギーは、ながく持続しないので、すぐに、さめる。継続していることも多少はあるけど、すきだから、やりたいから、やっている感じとは、すこしちがう気もする。日ごろ、よくかんがえていることだって、あるいは、かんがえずともよいのではないか、ともおもうこともあるので、業のようなものなのかもしれないと、すこしおもう。

あまり、すきなこととか、やりたいことさがしに精をだしすぎては、そのはてに、「自分には、すきなことも、やりたいこともないんだ。一生、このまま、なにに熱中することもなく、平凡に、いきていかなければならないんだ。このいきづらい社会で…。」などと、おちこんでしまうオチがまっている気がする。

以上のようにおもうから、「なにか、がんばってきたことは、ありますか?」とか、「やりたいことはなんですか?」みたいな、就職面接などでの定型文が、すごくダルい。

ダルいわけは、ほかにもある。

「すきとか、やりたいとか、そういう感情に根ざした熱中(がんばり)」を経験したことを、唯一、至上のものとしてみとめる文脈があることが、ダルい。ぼくは、「がんばらないでいること(あきらめること、執着をすてること)をがんばってきた」けど、それをみとめない一方通行の価値観が、すごくきらいだ。生産することをなによりも尊ぶ、工業時代の精神は、クソくらえだ。

「なんにもがんばる努力をしていないけど、いまこうして、いきています。」

これで十分だ。

なんで、こんなことをあらたまっていうのかというと、最近、ぼくは、プロ奢ラレヤーという人物に、ちょっと傾倒しはじめているからだ。彼の「嫌なこと、全部やめても生きられる」という思想にふれて、すっかり啓蒙された。とてもわかりやすい。

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これをぼくなりに解釈すると、「納得できることだけやって、いきる」といえそうだ。ここで、ようやく、いいまわしをポジティブなものに反転することができた。これぞ、あかるいペシミストをめざすものの、ただしきありかただ。

ぼくにとっては、自分が納得できないことは、全部嫌なことで、やりたくないことなのだ。だから、納得できないことは、やらないで、いきる。これが、30歳をまえにしたぼくの基本的な姿勢だ。

嫌なことだって、納得できることもある。すきなことだけど、実際に行為するとなると、納得できないこともある。

「すき・きらいではなく、納得できるか、納得できないか」ということが、こころの道しるべ。この感度をたかめていって、行為しつづけていきたい。それが、ぼくという人間の生が、社会へとひろがりをもつための、ひとつの鍵であるような気がするのだ。

嫌なこと、全部やめても生きられる

嫌なこと、全部やめても生きられる

  • 作者:プロ奢ラレヤー
  • 出版社/メーカー: 扶桑社
  • 発売日: 2019/12/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)