こころとからだの関係を自分でつかむのはむずかしいと、ジョギングをしていて、おもった。「こころは、からだをおさえていたのに、からだは、かえって、いきおいよくうごいていた。」という変な感覚。

運動しているひとは、ただ単に運動するだけじゃなくて、こころのトレーニングもすると、効果的だとおもいます。


運動によって、こころの不思議をまなびましょう!


そのひとつの方法として、言語化することがあります。
運動していて、感じたこと、かんがえたことをことばにするんです。



<以下、今日のいまさっき、ぼくがジョギングして、感じた問い>

なぞだ。人間の心身の関係って、なぞだ。

意識的に、それをとらえることって、ほんとうに、むずかしい。

いま、ちょうどジョギングをおえた。約5kmをはしって、24分と50数秒かかった。
このペースは、けっこうすごいと、自分的には大満足だ。

大満足なのだが、このペースではしれたことが、かえって、心身のなぞがふかまった。

タイムをねらわず、ゆっくりはしろう。
しんどくなってきたら、めんどくさいので、ゆるくやろう。

そのように、つよく意識しながら、はしっていた。
ちょっとペースがはやくなってくると、おさえて、~のくりかえし。

体感としては、手をぬいて、はしったのに、けっこうなペースではしることができていた。変な感じだ。

こころとからだは、どのように接続されているのか。
こころは、からだをおさえていたのに、からだは、かえって、いきおいづいていた。よくわからない。

はしりおえたあとの疲労感は、けっこうなペースではしっていたのに、ほとんどない。
意識的に、タイムをねらったときの方がつかれるし、そして、平均よりも、おそいタイムになるし。

はあ、つかれた。
疲労感はないといったが、つかれはする。風呂にはいろう。

YouTubeって、「雑談」や「語り」と親和的なんだから、ファクトとフェイクをあいまいにしか区別しないで発信するのって、本質的に当然のことなので、おこるべくしておこったんじゃないの?オリエンタルラジオの中田敦彦さんのYouTube大学について、おもったこと。

最近、Twitterで、オリラジのあっちゃんのYouTubeが、「フェイクニュースデマゴギーをたれながしている」と批判されまくっているのをよくみかけます。

www.google.com

このことから、表題のことをちょっとかんがえてみたいとおもいました。

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目次

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情報がフェイクorファクトであるかは、個人で判断するのは、とてもむずかしい。

フェイクニュースデマゴギーについて、ぼくは、まったく肯定しないでいようと努力しています。自分がフェイクニュースを発信するひとになったり、Twitterリツイートなどで加担することも、できるかぎりしないように努力しています。


なぜ、「できるかぎり」とか、「努力」などと、あいまいな表現をつかって、「しません」といいきらないのか。

それは、単純にいいきることができないからです。ナチスの宣伝戦略などを勉強すると、このことがわかるとおもいます。

第二次世界対戦当時、知識階級に属していた学者なども、政府のデマゴギーをうっかり信じていたひともいるとききます。それくらいファクトというのは、実は判断するのが、むずかしいんだとおもいます。そこをついたのがナチスであり、ゲッベルスの宣伝戦略なんだとおもいます。

情報を掌握され、たくみな宣伝によって、大衆は、いともたやすく煽動されてしまい、フェイクをファクトと信じてしまうことは、歴史が証明しているんだとおもいます。

オリラジのあっちゃんが批判されているのは、ウソを平気で発信しているということに集中しているようですが、ほかには、「発言に責任をもて」とあっちゃん自身がいっていたにもかかわらず、それを放棄している無責任さが批判されています。

ぼくはビジネスには道義や事実にもとづいたルールがあるべきだとおもいますが、金もうけ主義、拝金主義にはしると、平然とウソをついてしまうのが人間なのかなあ、などと、ぼんやりとおもいはするんですが、それは今回の主題ではありませんので、さっさと主題にいきます。

 

YouTubeと「雑談や語り」との親和性

YouTubeは、「雑談」や「語り」との親和性がたかいように、ぼくはおもっています。

それでは、今回の主題です。

そのこころは、「視聴者は、ラジオのように、声だけをきいていても、YouTube体験が成立するし、また、気がむけば、映像をみて、表情や身ぶりなどをたのしむこともできる。そして、発信者にメッセージをおくることもできる。つまり、視聴者側に、参加の自由がある。」ということです。

ここ数ヶ月くらいのあいだ、ダルビッシュ有さん、ホリエモンこと堀江貴文さんのYouTubeをマメにみていますが、「ざっくばらんに話をするスタイル(=雑談、語り)」にかわってから、視聴回数が爆発的にのびています。

ほかに例をあげると、最近あったホットなYouTubeニュース、misonoさんのYouTubeに、島田紳助さんが出演したことです。

島田紳助さんのことは、個人的に、むかしからファンなので、めっちゃうれしかったという感想をかきたいんですが、余談がすぎるので、やめておきます。紳助さんのトーク力、雑談力のたかさが、YouTubeに絶妙にマッチしているとおもいました。


【神回】misonoの為に!?島田紳助さんが特別に出演して下さいました…〜復帰ではありません〜前編【ヘキサゴン】


雑談や語りにフェイクorファクトの考証は必要か?

結論的には、必要なんだとおもいます。より質のたかい雑談や語りにするためには、しっかりとした事実をもっているべきです。

しかし、日常、だれかとのんびりと雑談しているときや、なにかをかたったりするときに、そこまで綿密に事実の考証しながら、はなすでしょうか?たぶん、ほとんどのひとが、そんなことまで、かんがえていないでしょう。

そもそも、雑談や語りというのは、むかしからありますが、それが「民間伝承」みたいなかたちで、ふるい土地にいけば、のこっていたりします。その民間伝承のおおくは、口述によって継承されてきたものです。その伝承を民俗学者民族学者は調査し、地誌や民族誌などとして、まとめますが、そのときになって、はじめて、ファクトとフェイクの考証をするのではないでしょうか。

雑談や語りの場にいる当事者たちは、フェイクorファクトは、あたまにはないのではないだろうかとおもうんです。

ぼくは、おばあちゃんの話をよくきいて、そだちましたが、おなじ話をよくするのですが、毎回すこしずつ、話の内容がちがうんです。好意的に想像をすると、いつもおばあちゃんは、たのしそうにはなしますので、聞き手であるぼくをたのしませようとおもって、ちょっと話を脚色したり、もっているのかもしれません。


結論

YouTubeは雑談や語りの形式に、その本質があるとおもうので、YouTubeで発信するときは、その内容が事実であるのか、創作であるのかをしっかり整理する必要があるとおもいました。うっかりしていると、その気がなくても、フェイクニュースを発信している不届きものとして、火あぶりの刑に処せられてしまいかねません。それで、ひらきなおって、屁理屈で自分を正当化してしまうと、かえって値うちをさげてしまい、信をうしなってしまうんだろうなとおもいました。

ゆとり世代、さとり世代に分類されてしまう人が、世代が違う人を理解するためには、「相手は自分より、しらないことがおおい」という意識をもつとよいと納得できた話。

おもいこみでも、妄想でもなく、今日は、司馬遼太郎山村雄一といっしょに、お酒をのんでいる。頭のなかが、10歳代のころのように、やわらかくなっていることを感じるほど、ここちのよい、お酒である。

友だちとか、職場の同僚とか、串かつ屋さんやラーメン屋さんの店主とかといっしょに、お酒をのむのもたのしいが、ひとりで本をよみながら、お酒をのむのも、たのしい。

司馬と山村との対談をまとめた『人間について』をよみながら、お酒をのんでいるのであるが、これは一読すべきである。読み手の空想力をためされるだろう。いまをいきるぼくとしては、とおい過去の人間たちの対談である。しかし、空想についていえば、ここには過去も未来もないといえそうである。

ところで、過去の人間を理解することについて、ちょっとした、気づきがあった。

「あとにうまれたぼくらは、さきにうまれたひとびとの思想だったり、科学技術だったりをふまえているわけだから、親や先輩などのことを理解できるんや。逆にいうと、親や先輩らは、未来というアドバンテージがないから、ぼくらのことを理解できないんや。」

なかよくしている哲学をやっている先輩が、ぼくによくいうことである。かれからすると、すこしニュアンスがちがうかもしれないが、ぼくはこううけとっているので、ご了承していただくしかない。

ぼくは、いつも、これには納得できない。

「未来をいきるぼくのいいたいことは、たとえば、ぼくより過去をいきた司馬遼太郎梅棹忠夫が、いいつくしているのだから、親や先輩らは、アホなだけか、努力不足なのである。」

こんな風に、いつも腹がたっていたが、今日、というか、いまのいま、哲学をやっている先輩のいうところをすこしわかったような感触がある。

もし、ぼくが50年前をいきた人間のことを理解しようとしたら、かれらは、「いまよりも、もっと、わからへんのや」ということを前提にして、想像をはたらかせなければならないかもしれないことに、気がついた。

人間について』のなかで、司馬と山村は、つぎのように、ことばをかわしている。(p64,65)

山村 人間の脳は中枢だから、いろんな情報が最終的に集まり、それを適当にさばいて、つなぐべき情報はつなぎ、伝達すべきものは伝達する、というように、仕分けをして仕事していると思うんです。どんなコンピューターよりもすぐれていると言われるぐらいです。しかし、伝達し過ぎると、芸術とか、いろんなことにはあまりつながらないようですね。

司馬 つながらないですな。情報量は多過ぎないほうがいい。

情報は、あまりもっていては、いかんこともあるということである。これは何重にも意味があるようにおもう。

たとえば、ひとつ、ぼくが司馬遼太郎山村雄一という過去の人間を理解するためには、現代の科学技術の知識をもって、かれらの対談に参加しては、本質はみえてこないということ。もうひとつは、芸術などに関することは、情報から、ある程度、距離をとっておく必要があるという指摘についてである。さらに、もうひとつは、情報があるという制約があまりつよすぎては、そもそも想像をはたらかせにくいとおもえること。

司馬と山村との対談をかんがえるほど、ぼくには余裕もなければ、ちからもない。

かんがえたいのは、親や先輩など、卑近な過去の人間もふくめ、先人を理解するためには、「かれらの身になってみる」ということが必要であるが、そのためには、空想をはたらかせてみる余地がのこっている必要があるようにおもったことである。

極端にいうと、いま、自分がもっている情報をすててしまわなければ、過去にいきた人間のことを理解することなど、できないのかもしれない。「アホばっかりや」とか、「勉強不足や」とか、そんな風におもっていた自分が、過去の人間を理解することについての理解が不足していたのかもしれない。

結論はない。

いいたかったのは、うまいお酒をのんでいるということである。

人間について―対談 (中公文庫)

人間について―対談 (中公文庫)

いきづらさの穴をうめるために、ぼくはこんな雑文をかいているのだろうとおもう。

自分自身が、社会のどこにいて、どこにむかっているのか、いまもむかしも、全然わからない。ぼく以外のおおくのひとは、社会という秩序のなかにいて、その秩序にしたがって、あゆみをつづけているようにみえるけれど、実際のところは、どうなのだろう。ぼくは、その秩序のことがよくわからない。だから、そのよくわからないものに、したがっていくことが、とてもいきづらい。

鈴木大拙は、仏教の、宗教の、根本は無心なのだということを指摘している。その無心について、無分別の分別などという表現をつかったりして、あの手この手、何度もくりかえして、説明している。

鈴木大拙をうけて、ぼくなりの理解をふかめてみると、「信仰とは、無秩序のなかにあって、秩序だっていること」だといえるとおもう。社会は、二元的に、対立の論理で、なりたっているが、信仰の世界は、そうではない。無秩序が秩序だっているという感じが、どうやら、ぼくは、ここちがよい。ここちがよいってことは、つまり、ぼくは信仰的な態度で、いきていく人間なのだということだろう。ここに、ぼくの社会参加の基礎は、ついにかたまった、とおもえるのである。

それで、なぜ、ぼくは、こうして、だれかにむけているわけでもなく、だれかがこのんでよむわけでもない雑文をかきつづけてきたのだろうかと、ふとおもう。はじめは「自分を社会化するためだ」とおもってやっていた。しかし、それだけでは、ちょっとおさまらない気もしてきた。なぜ、ぼくは、こんなふうに、内的世界を他者にさらす努力をして、恥をさらしつづけるのだろう。

主題は、ぼくの社会参加のありかたについてである。

もし社会が秩序の世界であるとするならば、ぼくが雑文をかくことで表現しようと努力していることは反社会のことだろうとおもう。ぼくは、さきにかいたとおり、無秩序の秩序を志向するのである。

このことについて、うまくいえないが、ぼくは、「"ふつう"というおもいこみを破壊して、"ふつうなんてない"世界が、あたりまえになれば、もっといきやすくて、平和な世のなかになるのではないか」と、多少、漠然とおもっていたりする。ぼくの破壊したいという欲求は、おもいこみにむけられている。自分自身がおもいこんでいることに限らず、だれかのぼくに対してのおもいこみ、だれか自身にとってのおもいこみなどにもむけられている。

これはいったい、自分自身に社会性をもたせるためのとりくみなのだろうか。

むかしは、司馬遼太郎に、あこがれたこともあったが、いまやそのような大人物になりたいという自分への期待は、もうほとんどないようにおもう。孫正義のように、『竜馬がゆく』をよんで、一旗あげることを夢みたころもあった。しかし、そんな簡単には、人生はすすんでいかないことをしった。…あるいは、いまおもうと、このようなあこがれは、ペシミスティックな自分の性格に社会性をもたせて安定させるための本能的な調整だったのかもしれない。

雑文をかいたり、だれかと対話したり、ぼくが割合、一生懸命におこなっているとりくみは、いったいなんなのだろう。

「"ふつう"という型にはまってしまっている自分と他者のおもいこみ」をときほぐしていくことにつきるのかもしれない。

おもいこみによる秩序を破壊し、無秩序の秩序をつくっていくことを、わかりやすく、そして、おもしろく表現できるように、努力することが、ぼくの社会参加なのかもしれないとおもう。

無心ということ (角川ソフィア文庫)

無心ということ (角川ソフィア文庫)

仏教の大意 (角川ソフィア文庫)

仏教の大意 (角川ソフィア文庫)

孫の二乗の法則 孫正義の成功哲学 (PHP文庫)

孫の二乗の法則 孫正義の成功哲学 (PHP文庫)

出会い。不思議な関係。出会いはきっかけ。

ただ酒がのめた。

といってしまっては、身も蓋もない。
が、これは事実である!(。-`へ´-。)エッヘン。

いきつけの串かつ屋さんで、22時まえころから、お酒をのんでいたところに、"いきつけのラーメン屋さん"のマスターが、はいってきた。かれが、ごちそうしてくれたのである。

なんで、かれは串かつ屋さんに、はいってきたのか。それは、串かつ屋さんのまえをとおってみたら、ぼくの姿がみえたからである。

「仕事おわりで、なにかご飯をたべようとおもって、店をさがしていて、一回いってみたい串かつ屋やったから、のぞいてみたんやけど、ひとりでは、いきにくいなーとおもっていたら、アレ?あのメガネのお兄ちゃんちゃうん?とおもって、はいってみたら、やっぱりキミやってん。」

カウンターで、となり同士になり、串かつをたべ、酒をのみながら、アレコレとしゃべっているなか、このとおり、こたえあわせをしてくれた。

なんともいえず、うれしかった。
ぼくという人間が、だれかにとっての、なにかのきっかけになっていたのである。

計5,000円をラーメン屋さんのマスターが、しはらった。そのうち2,500円ほど、ごちそうしてくれたことになるのだが、これは、つまり、ぼくがつくったきっかけの価値なのだと、そのようにうけとっておこうとおもう。

最後は、ラーメン屋さんのマスターが、握手をもとめてきたので、しっかりと、にぎりかえした。そのとき、ぼくは名を名のりたい気になり、その気もちをはなした。しかし、かれは、名もなきラーメン屋さんのマスターと名もなきひとりの客が、今後も、たがいに「ラーメン屋さんのマスター」、「あのメガネのお兄ちゃん」というあいだがらでいて、10年後にも、そのままでいても、ええやんかということばをかえしてきた。
粋なことをいうとおもった。
名のらずにいるべきだろうとおもった。

今日は、自分の主体性が、まちのなかで息をしていることが感じられた。

ラーメン屋さんにおいては、その店の主人に対して、名もなきひとりの客であるぼくが、串かつ屋さんでは、その主人と同席し、ともに客となり、ともに酒をくらうという、えがたき経験をすることができた。
主人と客人とのあいだにある壁をとびこえることができたのである。

いやいや、そんな分別くさいことをいわずとも、すばらしき出会いである。

明日は、ラーメンをたべにいこう。

東洋ショー劇場に、ストリップをみにいった。演者のひとり、中条彩乃さんに、こころうたれた。

2020年1月2日、わが友たち男女四人で、天満にある「東洋ショー劇場」へいった。ストリップをみるのは、これで3回目だ。

こういう世界は、やっぱりずっとのこってほしい。世のなかでは、東京オリンピックだ、大阪万博だといって、まちの浄化作戦がはじまっているようだが、この世界は、のこさねばならないとおもう(浄化の対象に、実際になっているのかは、しらない。)。

なにをもって、浄化されなければならない悪だと、きめつけているのかを、冷静に、うたがっていきたい。

この日は、目のまえに、最低な客がひとりいた。ステージのはしで写真撮影をしているとき、そのひとは、椅子に、あさく腰かけて、ねころんだような姿勢になり、足をステージにのせていた。それをみて、踊子さんのひとりは、「そこは、ぼくたちの仕事場だし、礼儀ただしくしてくださいねー」と、やんわりと注意していたが、内心腹立たしかっただろうとおもう。「くそやろう、でていきやがれ!」といって、場をしらけさせなかったところに、自分の仕事への矜持があることを感じた。かっこよい。そのかっこいい踊子さんは、中条彩乃さんという。

がんばっているひとを無関係で、当事者でない人間が、無意味に、けなすことをみとめる理屈なんてないとおもう。

中条彩乃さんの表現は、つややかでエロくて、さらに、ちからづよくてかっこよかった。そして、その人柄にふれることができたこともあり、ファンになった。この日のミリタリー風の衣装などは、個性とマッチしているように感じられたし(衣装といっても、最後はぬぐのだが。)、のりやすいダンスミュージックっぽい音楽をつかっていて、参加型っぽくて、たのしかった。いろいろな工夫をこらしていて、感動するポイントがたくさんあった。

このような世界のよさについて、もうひとつ。

かえりに、劇場のトイレで、用をたしながら、友人のひとりと「あれがよかった、これがよかった。中条さんもよかったけど、四人目のひとも、よかった。」と、ペチャクチャとしゃべっていた。すると、奥の便器で用をたしていたオッサンがひとり、チラチラとこちらをみてくる。なんや?とおもったので、「いいですね、いつもきはんるですか?」と、ぼくは、はなしかけた。そのオッサンは、「いいでしょ!四人目のあの子のファンでして。」と、すごくうれしそうに、こたえる。「四人目のひとは、なんて名前なんですか?あの表情がよかったです。カラッとあかるい感じの!この劇場で、よくやってはるんですか?」と、さらにかえすと、オッサンは「伊東紅蘭ちゃんっていいます。ええでしょ、笑顔がいい!基本は東京でやっています。まえに一回、東京までみにいったことも、ぼくはあるんですけど、あの笑顔に、いっつも元気をもらってます。」と、やっぱりうれしそうにいう。

なにがいいたいかって、いいたいことは山のようにあって、ありすぎるがゆえに、うまくいえない。しかし、ひとついうと、ここは、"人間がいきている"のだ。人間がいきているところは、のこさにゃならん。

文化が変容していくことは、べつによいことだとおもうし、だれかが直接的に傷つけられたり、現代の社会的なながれにあまりにもそぐわないこと(たとえば、むかしは、「まな板ショー」なるものがおこなわれていたという。)はやめるのがよいとおもう。しかし、その場の本質を理解しようとすることなしに、先入観とか、おもいこみとかで、禁止することは、おおきなまちがいだとおもうのだ。

オチも結論もない。だから、どうやって、この雑文をおわればよいのかわからない。

"ふつう"というのは、しっかりと、うたがってかかり、自分の目でたしかめなければならないとおもう。「わたしの"ふつう"」もあるし、「あなたの"ふつう"」もあるのだ。自由になるには、いろいろなふつうを解体して、再構築していく作業を何度も何度もくりかえしていくことが必要だとおもう。そんなことろで、この雑文をおえておこう。

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写真は、踊子さんととったもの。肖像権だ、なんだとあるとおもうし、自分もうつっていて、さすがに多少の羞恥心もあるので、モザイクをかけておこう。われをわすれ、、はしないが、うかれて写真を二枚もとるくらいたのしめる、体験の価値のたかい表現の場だった。においだけでも、つたわるだろうか。

1km4分台で、はしれたこと。

今日、2019年最後のジョギングをして、約5kmを24分55秒くらいで完走した。今年中に、ついに1km5分をきることができた。1km、4分59秒くらいのペースである。運動ぎらいの自分としては、100点をあげてもよいとおもっている。気分は爽快だ。これで、はしることについては、もう納得した。今年、10kmをはしることも達成できたし、満足だ。去年から、はしりはじめて、もう十分だ。

なんで5分をきることができたのか、ちょっとだけ、かんがえてみたけれど、どうも筋トレがよかったような気がする。11月ころから、副鼻腔炎が悪化したりして、体調がよくなかったので、はしることをあまりしなかった。その間は、スクワットで足腰をきたえたり、肩まわりの筋肉をきたえたりしていた。この筋力が、ちょっとばかし、はやいスピードではしるための、ふんばるちからになったような気がする。週3回、4回も、がむしゃらに、はしるだけではできなかったことが、はしらずに筋トレをすることで、できるようになったのが、おもしろい。身体というのは、不思議だ。

人間、ある程度のことであれば、努力は結実するのだ。自分できめた目標を、自分のちからで達成すること、それ自体が重要なのだとおもう。ある行為に対する価値は、自分できめていいし、その行為に納得するかどうかは、自分のものなのだ。