1km4分40秒ペースで、5kmをはしる。

こんにちは。


きのうの夜中、5kmランをして、1kmを4分40秒台のペースで、はしれました。これまでの最高ペースが、脚をプルプルさせて、ヘトヘトになりながら記録した1kmをちょうど5分のペースでしたので、一気にタイムをちぢめて、スケールアップしました。
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どうしてこうなったのか?という自分なりのこたえ、結論をさきにいいますと、まちがいなく筋トレの成果です。1km5分のペースの壁をやぶれないでいたころには筋トレをしていませんでしたが、いまは下半身、腹筋、上半身の筋トレをおこなって、体幹部をきたえることをとりいれています。そして、筋トレをとりいれはじめてからは、長距離走は年間で3回ほどしかおこなわない頻度になっています。にもかかわらず、はしるペースが、大幅に向上したのです。


突然のレベルアップが、うれしかったので、はしりおわったあと、すぐに日記にのこしました。なにがいままでとちがっていたのか、からだの感覚的なことを言語化し、すこしの分析をくわえています。


約5kmを23分37秒ではしった。1kmを4分と40秒くらいのペースだ。一年前より、20秒くらいちぢめた。壁を軽快にとびこえたようで、爽快だ。


去年はほぼはしっていないのに、この進歩は、まちがいなく筋トレのたまものだ。下半身のトレーニングのおかげで、地面をけるちからづよさが、かなりパワーアップしていて、推進力が格段にあがっていた。


ほかには、もしかしたら道具のちからもあるかもしれない。レギンスをつけるようにしたのだが、それのしめつけるちからが、脚にバネをあたえているような感じがある。


今日は午前午後と、ほとんど一日中、ちから仕事をしていたにもかかわらず、夜中にこのタイムで5kmをはしれた。めちゃくちゃ体力がついてきたことを実感できた日であった。いまからクールダウンに、かるいペースで、もう5kmくらいはしれそうなほどだ。   


きのう、長距離走をしていて、つかれてくると脚がひらいてくる感じがありました。そうならないように、バネをつかってはしろうとすると、ふとももの内側の筋肉に意識をむけるのがよいとわかりました。ふとももの内側に意識をむけて、足の親指で地面をふみしめるように、けりあげる感じです。


筋肉のことをしらべてわかったのですが、内転筋は運動能力の向上のために、かなり重要な筋肉のようです。きのうはそれを実感しました。
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単純にはしりこみさえすれば、体力は向上するというのは、どうやら幻想です。「いまの自分にはなにが不足しているのか?」ということをみきわめて、それにあった方法で、適切にきたえていくことで、運動能力はレベルアップしていくということが、まちがいなく真実です。


ところで、きのうのペースではしって、フルマラソンでようやく3時間30分台なのですが、これは途方もないです。はしっているあいだ、ずっと強度のある負荷が脚にかかっている状態だったので、いまは10kmすらも、それを維持できる気がありません。マラソン選手は、えげつないペースではしっているんやなぁ…というのが、率直な感想です。


キロ5分の壁をやぶったからこそ、みえるようになった景色なのだとおもいます。その壁のさきには、途方もない山脈がまちかまえていたようです。


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サラリーマンをやめて、自由なライフスタイルを確立するためのアレコレ

月の半分だけ、しっかりはたらいて、のこりはのんびり本をよんだり、がっつりからだをうごかしてすごすライフスタイルを確立したい。お金は生活できれば、それでよい。お金ではかえないゆたかさをおいもとめたい。


ようは危険なのは、「社会から脱落してしまった」というレッテルをはられて、社会的にころされてしまうことなんだろうとおもう。ちゃんと社会参加していますよ、というかたちをみせれるようにしておく。これさえきっちりできれば、なんとかゆるく、ゆたかにいきていけるんじゃないか。


どうやればよいのかわからないが、ひとつおもうのは、「ながいものにまかれる」ということだ。巨大市場にぶらさがって、ほそぼそと、やっていく。ゲーム実況者のライフスタイルをみていると、そんな感じのことがみえてきた気がする。かれらは、ゲームという巨大市場に、ぶらさがっていきているんじゃないか。


やっぱりどんないきかたも、市場は密接にかかわってくる。需要と供給の関係性のなかに、活路がある。市場からはなれて、独自のライフスタイルを確立することは、よほどの天才でないかぎり不可能だ。そもそも、おおくの天才がしんでから評価をうけているわけで、いきているときは困窮していたことも、すくなくないわけだ。


ぼくの興味関心は、教育という既成の概念や価値観で、括弧でくくることができるとおもうから、やっぱりこれはたいせつにした方がよい。ひとつの軸だ。


ということは、つまり、長瀬というまちで、自分の場づくり、地域参加、まち参加をつみかさねて、教育(まなんで、自己を変化させ、自己実現していくいとなみ)を軸に、近畿大学にぶらさがる方向を模索していって、PDCAをまわしていくことが、わりとただしいやりかたのようにおもう。

ウソつき少女と健気な犬の少年 【夢日記 2021/1/15】

なにものかが、ぼくの背中にあるカバンから、なにかをとった。ぼくは、とられたものは梅棹忠夫に関する新聞のきりぬきだと、すぐに気がついた。なぜなら、それ(梅棹忠夫)は、ぼくにとって、うばわれてはならないものだからだ。


ぼくはすぐにふりかえった。すぐうしろに、少女がいたので、といつめた。


「きみは、ぼくからなにかをとったでしょう。すぐにだしてください。」


少女は首をよこにふって、いった。
「しらない。とってない。」


ぼくは、なにがうばわれたのかをしっていたので、それがうそだとすぐにわかった。


「その手にあるのはなんです?」


そういって、ぼくは少女の右手をつかんだ。その手には、たしかに、ぼくにとってかけがえのないものがあった。


「それはぼくのものなので、かえしてもらう。」


ぼくは少女の顔色をみて、なにかを察した。


「それを強引にうばいとったことはどうでもよいが、なぜこんなことをしたのか、正直にいってほしい。」


少女はだんまりをつづける。


「ほんとうのことをいう方が、自分のためにいいとおもうよ。」


やさしい声色でつたえたかったが、声はふるえていた。「いつまでもウソをついて、いきていたら、破滅するぞ!」と、さけびたかったのをこらえた。


これ以上かかわっても、ムダだとおもったので、ぼくは少女をすてさった。



場面はかわり、なんだかことばづかいやからだのうごきが、ぎこちない少年とであった。ぼくは、かれから、ふかい魅力を感じた。しばらくのあいだ、ふたりでまちの風景をながめて、のんびりとすごしていたら、かれは重大なことをうちあけた。なんと、かれは、なにかのまちがいで、人間のすがたでうまれてきてしまった犬だという。


かれははじめ、人間のことばをはなすことができなかったし、二足歩行をすることも満足にできなかった。当然のように、おなじ人間からは嘲笑され、差別された。しかし、かれは「人間として、うまれたということは、かならず人間らしくなれる」とつよいこころで信じ、健気に、ほかの人間のように、はなすことができ、あるくことができるようになる訓練をおこなった。その成果はしだいにあらわれてきた。かれは、人間のことばをはなすことも、二足歩行も、ぎこちないとはいえども、できるようになってきたのだ。


いまや、かれを嘲笑するものは、だれもいない。


かれは、自分が人間としては未熟であるということをいっさいかくしていない。つよがりや虚勢でもなく、あきらめからくるひらきなおりでもない。かれは自分の運命を、自己の存在をそのままうけいれている。かれには、ウソがないのだ。


ぼくは、かれの魅力のふかさに気づいたとき、重大なことをしった。


以上。2021/1/15、AM7:20ころ、おきぬけにみた夢の日記。



明恵 夢を生きる (講談社+α文庫)

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無意識の構造 改版 (中公新書)

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生レバーをたべて下痢になって、かんがえた「人生と病気」のこと。

あいかわらず、おなかに不快感がある。便意はひっきりなしという状況ではなくなったが、かるい下痢状態だ。何度か平熱にまでさがったが、いま現在微熱もつづいている。倦怠感はない。


過去に三度、食中毒になった。すべて鶏肉をたべたときで、いずれも体温は39.5度をこえ、下痢が一晩中つづいた。そのうち一度だけ、嘔吐もあった。悪寒があるなか、トイレにこもらざるをえない状況は、拷問のようだった。


今回はそれとくらべると全然ましなのだが、ながい。症状がなかなか改善されない。過去三度は、二日目までつづくことはなかった。今回と過去三度とのちがいは、はじめから軽傷であり、点滴をうっていないところだ。だから、回復までに時間がかかっているのだとおもっているが、はたして。


食中毒と、きめてかかっているが、それはたしかなのだろうか。医者は新型コロナウイルスではないだろうといっていたし、自分の感触的にもそうではないとおもうが、こればっかりはほんとうのところはわからない。PCR検査をうけてはいないから、状況証拠でしかない。しかし、病気なんてものは、はじめは状況証拠にたよるのが常道のようにもおもう。


去年の12/30、31と今年の1/3に数名と飲食店で会食し、お酒をのんだ。1/5にほかの客がいない串かつ屋のカウンター席で、ひとりでお酒をのんだ。それで、1/8に焼肉会食をした。それから1/11のお昼ころに、下痢がはじまった。会食したひとに、コロナのうたがいがありそうで、体調をくずしたひとがいることはきいていないし、潜伏期間のタイミング的にもはずれている。食中毒のタイミング的には、食後二日後くらいであり、ジャストだ。


今回、11ヶ月ぶりに、おおきく体調をくずしてみて、やまいのなかでの自分をはじめて冷静にみつめることができている気がする。なにものに、からだがむしばまれているのかわからないという不安や恐怖を感じながら、同時にそれを客観的に、動じずにながめている自分がいる。


病気のこわさは、ふたつほどあるように、今回おもった。ひとつは、からだの不調によるくるしみ。これは、おなかがずっといたかったり、ねれなかったり、はきけがするんだから、実際にしんどい。もうひとつは、まわりの人間からのくるしみだ。その病気をまわりは理解してくれないんじゃないか??という不安が、実はけっこうしんどいんじゃないか。病気になって、からだがしんどいときに、だれもそれを理解してくれないような不安をかかえてしまうことは、なによりもこわいという気がした。心身がよわっているときに、「病気にかかった人間は悪だ」という目線をむけられると、はねかえすちからもでてこないんじゃないだろうか。


できるかぎり健康でいたいが、人間はいつかしぬので、かならずどこかで、病気になる。病気のくるしみには、いつかかならず、うけいれなければならない瞬間がくる。それが生なのだとおもう。

コロナ禍のこんな時期に下痢なんかなって最悪だ。生肉なんかたべなければよかった。

今朝も、すこし微熱(37.1度)と下痢がつづいている。昨日、夕方には一度おちついたようにおもえたのだが、深夜から、キュルキュルとした腹痛と下痢がふたたびおこりはじめた。お腹の不快感はあるが、倦怠感はない。キャッチボールならできそうだ。


こんな時期に下痢と微熱が二日もつづいてしまっては、自粛警察に弾圧されてしまいそうだと、すこし恐怖を感じている。自粛警察化してしまいそうなひとは、職場にもいるし、自宅にもいる。自宅では父親がすでに、ほとんど自粛警察なのだ。ナチスや末期大日本帝国時代の人々の気持ちが想像できる。


コロナ禍は、かりそめの信頼で、かろうじてつながっていた人間関係を破壊してしまうのは、ほんとうのことみたいだ。


生肉なんかたべなければよかった。まえは、たべても、なんともなかったのになあ。

「働きたくないけれど、働けないのもつらい」とおもってしまう人生とは、なんと理不尽なんだろうか。

今日は、朝になっても下痢がひかず、また、ほとんど満足にねることもできずに疲労もたまっていたので、仕事をやすんだ。午前10時ころに病院にいき、整腸剤と経口補水液を処方してもらった。体温が微熱から平熱にもどっていたのもあり、あるいて病院にまでいけるくらいの体力があったが、これはトレーニングをつんできたおかげで、からだに変化がおきているのだとおもいたい。回復力などは、4年くらいまえまでとは全然ちがう気はしている。


いまはもう症状はよくなったが、はらのなかにウイルスか細菌かがいたなごりのような感触がのこっていて、倦怠感まではいかないが、すこしだけ、からだにはフワフワしたようなつかれがある。


というわけで、「さて、明日からまた、めんどくさいが、はりきって仕事をしよう!」と、気分をいれかえていたのだが、世間はコロナ禍だ。症状がおさまったあと、48時間は出勤してはいけない内部ルールがあり、それにひっかかるらしい。明日は自宅待機になってしまった。こまったことに、ぼくの職場は中小企業規模であり、テレワーク体制はなんにもすすんでいない。これはこまった。仕事が2日分、たまりっぱなしになってしまって、このあとがタイトになって、たいへんだ。


ずいぶんと、まえおきがながくなってしまったが、いいたかったことはつぎのことだ。


本音をいえば、できることなら、はたらきたくない。毎日ゴロゴロとしながら、本をよみ、YouTubeをみて、ボーッとかんがえごとをして、気まぐれなタイミングで、からだをうごかして、野球のこと、からだとこころのことをかんがえていたい。しかし、こればっかりでは、あきてくるというか、気分がめいってくるのだ。だから、精神に、はりをもたせるために、「やっぱり、はたらかなくっちゃいかんなあ」と、本音に反して、自分を律するわけなのだが、コロナ禍対応ということで、はたらくことができないことで、微妙に、気分がおちこんでしまっている。


phaさんが、ちょうどこんなツイートをしていたが、わりと共感できた。


「はたらきたくないけれど、はたらけないのもつらい」というところで、とまどっている自分がいる。人生とは、なんと理不尽なんだろうか。


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根をはった土地をはなれるさびしさ

下痢がひどく、微熱がある。おもいあたるふしはある。金曜日にたべた牛肉のユッケとレバーだ。もう金輪際、魚の刺身をのぞいて、どんな生肉もたべない。


最近はずっと、比較的健康であることがつづいていたので、11ヶ月ぶりに、おおきく体調をくずしている。以前、鶏の刺身をたべて、あたったときには39.5度をこえる発熱と下痢に嘔吐と、散々な目にあったが、それとくらべると、今回のは全然ましではある。倦怠感はあるが、バットの素振りでもしようかとおもえたりもするのは、あるいは本当に体力がついてきたあかしなのかもしれない。


とはいいつつも、やっぱりからだがしんどいのは、たしかである。からだがしんどいと、悲観的になる。ねいってから、一度目がさめてしまったいま、目をつむるとネガティブなことをかんがえて、気にしてしまう。3時ころに目がさめて、いまはすでに5時である。こころの健康をたもつためには、からだの健康が必要なのかもしれない。


一人ぐらしをするというかたちで、ライフスタイルを変化させようとしているが、ちいさなストレスがかかっているみたいだ。からだがよわっているいまだからこそ、このちいさなこころのゆれをとらえることができたようにおもう。


ぼくはいますんでいる土地に、しっかり根をはって、いきていたみたいだ。ここ数年のあいだに、どうやらそういういきかたをやっていたみたいだ。地下鉄の改札をでて、階段をのぼり、地上にでたところには、いきつけの串かつ屋さんがあり、ラーメン屋さんがある。串かつ屋さんのマスターとは、何度も何度も人生のあれこれをかたりあい、いきる活力をはぐくんでもらった。また、友人の男女ふたりが同棲しており、平日か休日かをとわず、何度も家にまねいてもらい、たのしく食事して、すごした。


この土地から、自分自身をひきはなすことがつらい。串かつ屋さんのマスターのところに、帰宅途中に、フラッとたちよることができなくなることが、さびしいのである。


とおくはなれた土地にいくわけではないので、おおげさな感じかたをしているのだとおもう。しかし、ちいさなストレスの質は、こういうことなのだとおもう。