医者と患者とのあいだの情報の非対称性とドクターハラスメントの話。~話をきかない医者。主観で、きめつける医者。~

副鼻腔炎が、ながびいている。

6月末に、発症し、服薬治療を11月のあたままでつづけた。そこで、医者はレントゲンをとり、「もう大丈夫でしょう」といって、治療をやめた。

患者のぼくは、まだ後鼻漏で、咳がでているといっているにもかかわらず。また、レントゲンをみた感じ、まだ白くもやがかかっていて炎症しているようにもおもえたのに、その疑問には、医者はこたえなかった。

医者が「もう治療の必要はない。」といえば、患者はいたみを感じていても、治療を断念せざるをえないのである。ここにある情報の非対称性が、ぼくはとても不快である。

11月中旬に、風邪をひいた。また、副鼻腔に菌がはいって、炎症しては、かなわないとおもい、すぐに医者にいった。今度は風邪の薬をもらった。

10日分ほど、もらい、なおりきるまで、服用した。

風邪の症状はおちついたが、11月最終週から、頭痛がひどい。夜もしっかりねむれない。ちょっと熱っぽさも、体にはある。

変な病気にかかったのかとおもったが、12月2日に、左の鼻から、黄色の膿がでてきた。副鼻腔炎によって、でてくる膿である。もはや、みなれているので、よくわかる。

すぐに、医者にいったら、薬を処方された。
「気にしすぎとおもいますが、悪化するまえに、薬でなおしましょう。」などといって、薬を10日分、処方された。

もはや、この医者はあてにならないとおもいはじめていたが、薬はのみきった。この間、やっぱり、鼻からは、膿がよくでてくる。喉からも、膿がでてくる。

あてにならない医者の治療はやめて、あてになる医者をさがしていたので、先週の土曜日に、べつの病院にいった。そこで、CTをとってもらい、現在副鼻腔が炎症していることと、3年まえにうけた手術が成功していることをセカンド・オピニオン的に、説明してもらった。この医者に、今回からみてもらいたかったが、あてにならない医者による治療途中なので、それが一段落するまでは、その医者にみてもらってくださいという感じだった。初回なので、関係づくりのために、空気をよんだ。「いまかかっている医者が、不安なんだったら、うちにきなさい」と、すぐにいわないところをみると、医者にも世間があるようである。

これをうけて、12月17日、あてにならない医者のもとに、いった。ちょうど薬がなくなったからである。

あてにならない医者は目視で、鼻と喉の入口をのぞき、「みるかぎり、風邪の症状はないので、薬はいらないとおもうが、気になるといっていますので、処方しますから、自分の判断でのんでください。」といった。

どうもおかしい。
患者であるぼくは、膿がでてきているといっているのに、この医者は「風邪である」と、自分の主観で勝手に判断してはいないか?
いや、主観とか、そんな高尚な疑問以前に、患者に、抗生物質を「自分の判断で、服用してください」などというのは、医者として、あるまじき行為ではないのか?

おかしい、認識がちがっているとおもったので、鼻からでてきた膿をスマホで撮影した写真をみせようとしたら、この医者は、「そんなん、写真まで、とらんでいいんです。気にしすぎです。ぼくも、たまに、黄色い痰くらいでます。完全に治癒することを目指してはいけない。」と、すこし語気をつよめて、いった。

やはり、どうもおかしい。
「気にしすぎ」ということが、釈然としない。ぼくは客観的にしめすために、ある種実証的に根拠をしめすために、膿の写真をみせようとしたのだ。患者はアホではない。鼻風邪の黄色い鼻水と副鼻腔炎の膿は、みためがまるでちがうのである。判別がつくから、それをみてもらって判断してもらうために、写真にとっているのに、「気にしすぎ」とは、これはどういうことだろう。むかしは、この医者は、もうすこしまともだったとおもうが、歳をとって、なにかをうしなってしまったのだろうか。なんと主観的な医療をするのだろう。

それで、このやりとりで、わかったのは、このあてにならない医者は、前回の12月2日の処方薬を風邪という認識でだしているということだ。患者が、副鼻腔炎の兆候をつたえているのに、しらべもせずに、風邪ときめつけていたのである。

患者が、膿がでるといっているし、やや後鼻漏による咳もでるといっている。そして、CTもレントゲンもとっていない。そういう状況で、この医者は、「気にしすぎ」とまとめるのである。

臨床的な知見と科学技術をもちいたデータの両方をくししてこその医学ではないのか、専門性ではないのか。

ぼくは今後、CTをとった、あたらしい医者にかかるつもりである。さいわいにも、よさそうなところがみつかったからよいものの、みつからなければ、ぼくは今後どうすればよかったのだろう。

このあてにならない医者からは、おおくのことをまなんだ。

医療には、情報の非対称性がある。医者から「気にしすぎ」といわれた患者は、つぎのことばを発することに萎縮してしまう。ドクターハラスメントである。

いますぐに、根本的な解決をおもいつかないし、おもいついたところで、すぐにはどうにもならないのが社会だとおもうから、とにかく、いまできることをしっかりやる必要があるとおもった。

自分の身は自分でまもる必要がある。ただしい医療ができる医者を自分でさがすことができる知識と経験をもたなくてはいけないとおもう。病気について、医者にまるなげせずに知識をもったり、医者の友だちをつくったり、いろいろせんならん。

今後、やっていきたいこと。ときあかしたいこと。納得したいこと。

「おっ、これよいな」

こういう感じは、だれにでもあるとおもう。

この感覚は、層になっている。
個々人で、あさいところで、ふかいところで、「これよいな」という経験をいろいろもっているはずだ。

このふかさの問題で、だれしも、めっちゃ、とびっきり、ふかいところで、「これよいな」という経験をしているはずだ。

ぼくは、これが、なぜおきるのかをときあかしたいとおもっている。ときあかすことができなくとも、せめて納得したい。

いま、わかっていることは、この「おっ、これよいな」という、ふかい経験をふりかえってみると、「おっ、これよいな」とおもわせたことを表現しているひとたちは、ぼくが過去に「おっ、これよいな」とおもわされてきたひとびとと、おなじような思想に、ふれてきたということだ。

氷室京介は、10年くらいまえに、ポッドキャストで、ダライ・ラマの『抱くことば』をすすめていた。

hideの曲の詞は、すごく仏教的だと、坊さんがいっていたし、「お釈迦様の手のひらで、おどっている云々」とhideがかたっていたことを、共同楽曲制作者のINAは回想している。

司馬遼太郎は、兵隊にとられたとき、歎異抄を熟読していた。

そんな司馬遼太郎を、梅棹忠夫は、友人だといって、敬愛し、一冊の本にまとめている。

ぼくが、職場で、であった同僚のひとりは、仏教とか、宗教をテーマに修論だったか、卒論だったかをかいていたときいた。

そのほかも、いっぱいある。が、あんまり、かきすぎると、このあとの関係性に、自分が違和感をおぼえるから、やめておこう。ちかづきすぎると、破滅する気がするのだ。

とにかく、これらがしめす、みちびきを、学者は、科学は、なにも説明していない。このぼくが、なにによって、みちびかれているのか、いったいだれが、ときあかすのだろう。

「思想」が、ひとつ、鍵をにぎっているとおもうが、どうだろう。

とにかく、ひとつの統一の原理というか、融和の原理というか、なにか、おおきなながれに、ぼくはみちびかれているとおもうのだ。

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抱くことば

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歎異抄 (光文社古典新訳文庫)

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  • 作者:唯円,親鸞
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飲食店の店主をマスターとよぶか、大将とよぶか。結論は、その店の雰囲気によるのだとおもう。

マスターとよぶか、大将とよぶか。

検索してみると、けっこうおおくのひとが、まようみたいだ。おもしろい。画像は、検索結果のスクショである。
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ぼくもはじめは、まよった。
いきつけの串かつ屋さんで、不慣れなときは、「大将」と、こころぼそい声でいっていた。
しかし、周囲の声を、注意深くきいていると、ここでは、「マスター」とよんでいることがわかった。
だから、ここでは、マスターとよぶようになった。

ほかの店では、どうするかというと、基本はマスターで、とおそうとおもっているけれど、大将の雰囲気のときは、大将とよぶことにしている。

しかし、マスターで、基礎をかためてしまった身としては、どこにいっても、マスターでとおしたい気もする。

マスターとよぶか、大将とよぶかは、なにできまっているのだろう。
なんとなく、店の雰囲気と客の総意で、自然にきまっている気がするけれど。奥がふかい。


歩いて読みとく地域デザイン: 普通のまちの見方・活かし方

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  • 作者:山納 洋
  • 発売日: 2019/06/02
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
食事の文明論 (中公文庫)

食事の文明論 (中公文庫)

ことばをすてる。

いきつけの串かつ屋さんで、ひとりでいる。

とはいっても、かたわらには、鈴木大拙がいる。

だれかと、お酒をのむのもたのしいけれど、ひとりでお酒をのみながら妄想するのも、おなじくらい、たのしい。

お酒によってくると、ことばがおおくなる。
氷室京介が~。hideが~。」と、なにかことばにしたくなってくる。
「ぼくは、なにものだ」と、ことばにしたくなってくる。

それで、ふとおもう。
ことばを弄するのは、やめよ、と。

ことばでは、自己がなにものであるのかまでは、到達できないと、いまはそんな気がしている。

写真は、牡蠣の串かつである。
この時期だけ、貝殻にのっけているのだけれど、なんと粋だろう。みているだけで、おいしい。

有線から、中森明菜のDESIREがながれている。
おかっぱ頭に、和風の衣装が、かっこいい。

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自己実現のための自己表現と引退したAV女優について、おもうこと。

AV女優という職業人には、どこか影がある。

性をあつかった表現は、アウトサイダーにとっての自己実現のための自己表現だったりするので、影はそこからうまれるのだとおもう。

エッチをして、「ああーん、いやーん」と、気もちのよいおもいをして、お金をかせいでいるわけではないことを理解しなくてはいけない。その表現は、そもそもからして、快楽とはべつの根から、うまれていることであり、それ自体が、すごく重大な行為だったりする。くわしくは、コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』をよんでほしい。

彼女らは、たとえば、身体性を回復するために、ああいう表現をしていたりするのだ。これは、性風俗につとめる女性にも、いえる。臨床心理士にかかる女性で、性風俗につとめているひとは、割合おおいという事実がある。

なぜ、彼女たちが、性に関する表現をおこなうのかというと、それは「なにか自己にとって、かけたものをさがす」という欲求があるからだ。それが、意識外の、とらえどころのないところから、わきあがっているはずなのだ。

それで、表題に関して、引退したAV女優が生存報告などをおこなうことの意義についてだが、ぼくはこれは、とても重大なことだとおもうのだ。

ぼくは自分のことをアウトサイダーだとおもいこんでいるので、自分とおなじようなアウトサイダーが、社会にいることをとてもこころづよくおもう。コリン・ウィルソンが、のべているところだが、たとえば、ヘルマン・ヘッセは、アウトサイダーであり、かれの小説は、単なる小説的表現ではなく、アウトサイダーにとっての自己実現のための自己表現なのだ。ぼくはヘッセをよんで、自分が、アウトサイダーとして孤独に死んでゆく存在から脱することができるのではないかと、希望をあたえられるのだ。

この点で、AV女優の表現にも、ヘッセの小説と、にたものがある。

たとえば、ぼくは、むかしから、夏目ナナさんのことが、すきだ。なぜ、彼女のことをすきだったのか、この雑誌をみて、わかった。
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夏目ナナさんは、この雑誌の最後に、幼少のころの写真をのせている。雑誌は、基本、性的な表現に終始しており、文字どおり、裸の自分を表現しているが、その最後、自己の過去まで、赤裸々に表現している。これを自己実現のための自己表現といわずに、なんといえばよいのだろう。

それで、「夏目ナナさんは、いまごろ、どうしているのだろう?」とおもうことが、たまにあったが、Twitterもブログも更新はとまっている。そんななか、最近、高橋がなりYouTubeで対談しているのをしった。それをみた感想としては、あいかわらず、うつくしい。しかし、当時より、すこし雰囲気かわっている。大人びていて、ずいぶんまるくなった印象があり、雰囲気がややスピリチュアルな気もしないでもない。自分がなにものなのかしったような、よい感じの印象がある。

【高橋がなり】#41⇒元ナンバー1AV女優・夏目ナナが高橋がなりにガチ相談に現れた!【まえむき人生相談】

もう一度いうが、AV女優も、ヘッセとおなじなのだ。

引退したAV女優が、こうやって、元気に、いきているすがたをみせてくれることは、「アウトサイダーが、自己実現のための自己表現をおこなったさきに、どのように、いきていくのか」というかたちを提示することであり、とても重要なことだとおもう。

最近では、桜ここみという女優が、引退後、5年ぶりに、Twitterを更新していた。

とてもおおきな仕事をやっているとおもう。

アウトサイダー (集英社文庫)

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Nana―夏目ナナ1stムック (バウハウスムック)

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シッダールタ (新潮文庫)

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  • 作者:ヘッセ
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1959/05/04
  • メディア: 文庫

ひとと上手に、はなす方法について。方言とか、標準語とか

ぼくは、はなすことに苦手意識があるので、つぎのようなことを意識して、はなすという表現の技術を身につけようと努力している。

 

 

理性的なはなしかた

まず、ひとつ。

まじめなことをかんがえながら、声にだして、はなすとき、イントネーションは標準語っぽくなる。このとき、ことばをつむぐ間など、はなしかたが、氷室京介っぽくなっていると、自分自身は感じている。感じているというよりも、氷室京介のはなしかたをイメージしているところがあるから、実際に、そうなっているのだろうとおもう。

感情的なはなしかた

もうひとつ、自分の気もちをのせて、つたえたいことを声にだして、かたるときも、イントネーションは標準語っぽくなる。しかし、このときのはなしかたは、hideっぽくなっているはずだ。これも、意識的にイメージしていることなので、実際に、そうなっているのだろうとおもう。hideのかたりをイメージすると、気もちをのせたことばを表現しやすくなる気がしている。

これまでは、以上の2つのことをゆるやかに意識してきた。これらを意識することができるようになってから、割合、よくはなすことができるようになった。これらにくわえ、さらに、もうひとつ、自分のはなしかたがあることに、昨日、気がついた。その気づきがあった背景も重要だとおもうので、すこしだけ、かいておく。

霊性的直覚的(宗教的)なはなしかた

昨日は、職場のひとと忘年会をした。ぼくがしゃべりたいとおもうほどの、すきなひとたちをあつめて、計7人で、お酒をのんだ。ぼくが企画した会であり、「今日は、なにもかんがえずに、よっぱらうぞ!」と、きめていたので、ビールをひとくちのんだ瞬間、つまり、はじめから、昨日はよっぱらった。身ぶり手ぶりをまじえてボケてみたりして、よくしゃべり、よくわらって、とてもたのしかった。

背景としては、以上。
3つめの自分のはなしかたについて。

昨日は、なにもかんがえずに、瞬発力でしゃべるような感じがあることに、気がついた。そういうときは、しっかりとした大阪弁のイントネーションがでているとおもう。はなしているその瞬間は、ぼくは、はなしかたをなにもイメージしていないが、ふりかえってみると、雰囲気としては、島田紳助とか、ダウンタウンの感じがでている気がする。なぜかというと、少年のころから、ぼくはかれらのテレビ番組をよくみて、そだってきたからだ。自然的な感じとか、母語的な感じがあるかもしれない。なにも意識していないから、自分がどんな、はなしかたをしているのか、実際のところはわからない。

このように、はなしかたが、3つあるということには、なんの違和感もないけれど、この3つをいつでも、つかいこなせるようになりたいとはおもう。

相手や場によっては、緊張したり、萎縮してしまったり、気をつかってしまったりして、しっかりはなすことができなくなったりすることがある。緊張するのは、誰にもあることだとおもうし、まったく緊張しなくなることもないとおもうけれど、どんなときでも、できるかぎり、自分の間で、しっかりはなせる状態にはしたい。

自分の間(境界とか、領域、なわばり)をひろげながらも、しっかり他者の存在をみとめているような距離感をたしかにしたい。

【ノート】※鈴木大拙をたよりに、自己を整理してみる。

◯ひとつめのはなしかたは、理性的。
◯ふたつめのはなしかたは、感情的。
→理性と感情の世界、つまり分別の世界。

△みっつめのはなしかたは、霊性的直覚的。
霊性的直覚の世界、つまり無分別の世界。

自己のおおきなながれとしては、こんな感じがあるようにおもう。

仏教の大意 (角川ソフィア文庫)

仏教の大意 (角川ソフィア文庫)

  

肯定することが否定になり、否定することが肯定になったり、ならなかったり。

「あなたは、とてもがんばっているんだね。」

って、いわれたから、

「そんなことないよ。」

って、いってから、

「キミのここも、おんなじくらい、すごいとおもうよ。」

と、ボクはいった。

そうすると、

「わたしのは、そんなことないよ。」

と、キミはいうものだから、

「いやいや、すごいよ。」

って、いってから、すぐに、ハッとして、気がついた。

「そっか、そっか。やっぱりすごいとは、おもうけれど、キミのその『そんなことないよ』っておもう気もちも、尊重しなければいけないなって、おもったから、もう、やめておくね。」

といって、ボクはキミをだきしめた。