河下水希の『あねどきっ』をよんで。好きって、なんだ。

河下水希の『あねどきっ』をよみおわった。全3巻。

「すき」って気もちをもつことは、やっぱりたいせつなんだとおもった。

「あのひとのことが、すき…」だとおもって、すきだという気もちを告白しようとおもっても、いざ目のまえに、あのひとがあらわれると、「すき」とは、つたえられなくて。

時間はまつことをしらなくて、無情にも、ながれていく。

ひとは、そのとき、「タイミングをのがした…」とおもい、「これは、運命ではなかったということだ…」と、自分にウソをついて、あきらめる。

「すきです」とつたえることのこわさから、のがれるために。

じゃあ、いったい、そのこわさって、なんだろう。

「気もちはうれしいけれど、わたしは、あなたの気もちに、こたえることができないです」と、ことわられることが、こわいのだろうか。

それとも、自分が、ほんとうに、すきなのかどうかが、うたがわしくて、自分でも自分の気もちを信じられないことが、こわいのだろうか。

とにかく、「だれかをすき」だという気もちは、明日をいきるために必須の成分なのだとおもうけれど、それは、「自分で自分にウソをつくこと」と、おなじような成分でできているようにおもう。

なにかを「すき」だと、おもいこむことでしか、人間はいきていくことはできなくて、そのおもいこみは、「信じる」ほどのつよさをもっているものではなく、はかなくて、もろい「ウソ」なのだと、うすぼんやりと、しっている。

だから、人間は、「ほんものの、すき」が、わからない。

しかし、人間は、それをこえなければならない。

その気もちが、「ほんとうに、すき」であるとき、こころの声を耳をかたむければ、おのずから、それが「ほんものの、すき」であると直観できるはずなのである。

人間は、自分をいつわっては、いきていくことはできない。だから、人間は、だれかをすきになったとき、正直に、「すきだ」という必要があるのだとおもう。

自分の意思で運動することの教育的価値について。大学職員が、6.2kmを35分で、はしれるようになった経験をふまえて、かんがえる。

今日は、といっても、もう昨日なのであるが、22時まえから、ジョギングをした。6.2kmを35分で、はしることができた。1km、5分30秒ちょっとのペースである。着実に、自力をつけていることがわかって、おもしろい。

ちょっと調子がよい感じがしたので、3.1kmのおりかえし地点から、スピードをすこしあげてみたのであるが、これがまずかった。スピードをあげると、500mくらいで、一気に息がみだれて、はしることが嫌になるくらい、つかれてしまい、からだがいうことをきかなくなった。

このあとすぐに、ペースをもとにもどしたが、2kmくらいのあいだ、ずっと、呼吸をととのえて、最後まで、はしりつづけられるように、からだをコントロールすることに、集中しなければならなかった。

ペース配分をミスったために、しんどくて、つらくて、嫌になったが、ある気づきをえたので、かえって、はしることのたのしさや味わいぶかさは、ましている。

「自分がいま、どういうペースで、はしっているのか」ということや、「このペースであれば、はしりつづけられる」ということなど、そういう感覚をからだで理解できるように、なってきた気がしている。今日、意識的にペースをあげてみて、すぐにダメになったが、このことについても、「このペースでは無理だ。からだが、いうことをきいていない。呼吸がコントロールできない。もとにもどさなければ、はしれなくなる。」と、すぐに気がついた。

しかし、さきにもかいたとおり、もとのペースにもどし、呼吸をととのえることに、手こずったように、"気がつくことはできる"が、"まだ、自由自在に、からだをコントロールすることはできない"のである。

これまで、ただ単に、衝動的に、はしってきただけなのであるが、自力がついてきたためか、うえのように、心身のことについての理解が、はしることをとおして、ふかまってきた手ごたえがある。

天王寺高校の体育教師は、よっぱらいが戯言をしゃべるようないきおいで、根性論しか、しゃべっていなかったので、ぼくは、かれらから、なんにもおそわっていない。

自分で、はしりながら、本をよみ、感じながら、かんがえた方が、みのりがおおかったのである。ほとんど気まぐれで、はしっていただけだが、心身のことについて、ずいぶんと、理解がふかまったと実感している。はじめから、自分でやればよかったと、多少、くいがのこる。

以下は、余談だが、ぼちぼち、ハーフマラソンを目ざしてみようかなどと、欲がでてくるのではないかという気がしている。もし、ハーフマラソンをはしれるようになれば、つぎは、フルマラソンになるのだろうか。それで、フルマラソンをはしりきることができれば、いよいよ、体育教師批判が苛烈になるかもしれない。批判するかどうかは、さておき、もしフルマラソンをはしるようになったならば、相当、心身について、理解がふかまっているはずなので、竹内敏晴が提言していた「体育と国語」を合体させた心身の表現に関する授業をできるようになるかもしれない。

からだが語ることば―α+教師のための身ぶりとことば学 (評論社の教育選書 (16))

からだが語ることば―α+教師のための身ぶりとことば学 (評論社の教育選書 (16))

 

とにかく、以上は余談なのだが、こんなふうに夢想すると、夢はひろがる。コブクロ小渕健太郎だって、趣味で、はしっていたことが高じて、大阪マラソンで、フルマラソンに挑戦したことで、なんかしらんが、「42.195km」という歌までつくったし、いつのまにやら、大阪マラソンアンバサダーに就任しているし、人生、なにがおきるかわからない。


42.195km

TIMELESS WORLD

TIMELESS WORLD

 

 

大学職員の仕事、進学相談について。

進学相談という業務がある。

相談とはいうが、大学のことや、大学進学についての質問をうけつけて、説明するだけのことである。

ぼくは、この仕事をあまりきらっておらず、むしろ、たのしんでいるきらいがある。

この仕事の大半は、質問に対して、説明用の資料をもちいて、「それについては、こういうことです。」とこたえていくだけのことなのであるが、こまったことに、ウソをつかなければならないときがある。ウソというと、きこえがわるいが、つまり、説明用の資料からはずれた質問についての穴うめのことである。

こたえにくい質問が、やっぱりでてくる。今日も、こたえにくい質問があった。

「留学にいくことは、意味がありますか?」
これは、高3の男子受験生からの質問である。英検2級をもっているらしく、勉強熱心なひとであった。

留学にいったことのないぼくには、こたえられないことなので、ウソをついた。

「正直にいいますが、ぼくは留学したことがないので、よくわかりません。せっかく着席してくれたので、それをわかってもらったうえで、ぼく個人がおもうところをいおうとおもいます。自分が留学してみたいとおもうのなら、いくとよいのではないでしょうか。まなぶことにかぎらず、なんでもそうですが、気分がのっていないことをやっても、みのりはすくないとおもいます。キミはいま、英語の勉強を十分できているようなので、留学にいかずとも、できることはたくさんあるとおもいますが。ただ、おとしどころとしては、国際学部に入学すれば、カリキュラムに短期留学がくみこまれているので、それをやってみてから、きめればよいのではないでしょうか。ぼくからは以上ですが、このあと、留学にくわしいひとを紹介します。」

もうひとつ、「就職率はどのくらいでしょうか?就職はできますか?」という質問があった。これは、母娘のふたり組からの質問である。母親からの質問がおおく、娘、つまり、受験生本人は、ひかえめに、こくりとうなづくことがおおかった。

これも説明に窮したので、ウソをついた。

「新設の学部なので、まだ就職実績がありませんので、なんともいえません。資料のとおり、大学全体で、就職率何%とありますし、カリキュラムに就職関係の授業をくみこんでいますので、過度にご心配する必要はないかとおもいます。つぎにいうことは、わたし個人のおもうところなのですが、就職するということについては、学校で勉強することとは、またちがう資質といいますか、ちからが必要になってくるとおもうんです。コミュニケーション能力といわれるものだったり、人間関係に積極的に参加できるかどうかなど。また、その他、家庭環境からも影響はうけますでしょうし、そのときの精神状態など、いろんなことが関係してくるとおもうんです。大学としては、こういうものを訓練できる機会を用意していますので、その点は、安心していただいてよいかとおもいます。なので、ご心配されるのでしたら、就職率などはかんがえずに、できるだけはやくに、社会に参加するという経験をおおくもってもらうことをかんがえるのが、よいのではないでしょうか。たとえば、年齢のちがうひとたちとのかかわりあいがある場に参加するなど。」

どちらの場合も、相手は真剣な表情で、ぼくの話をきき、ふかくうなづくこともあった。

かれらは、ぼくが一生懸命に、ことばをついやして、なんとかこたえようとして説明する態度に、誠実さのような、なにかを感じとり、ふかくうなづいたのだということを、ぼくはしっている。

しかし、ぼくのいっていることは、ことばかずがおおいだけで、ようは、「自分でかんがえて、やってくれ」ということなのである。かれらは、ぼくのいっていることをウソだと指摘しなかったが、こころのうちでは、どのようにおもっていたのだろう。

相談がおわり、離席されるときには、かれらは、「ご丁寧に、ありがとうございました。」と、あかるい表情でいってくれた。

ぼくのウソも、すこしは、役にたったのだと、おもいこむしかない。

病的に"思いこみが激しい"人間について。

鶴見俊輔から、引用する。孫引きなので、本旨から、ずれているかもしれないが。

ぼくの病的なところは、まさにつぎのような感覚が根にあるようにおもう。

なにも、鶴見俊輔とおなじ問いを、もっているのだといいたいわけではない。

こんなことを問う器ではないのに、もってしまっていることのくるしさをいいたいのである。

 自分一人が生きていて、あとの人々は全部、舞台の袖のところで消える、という図柄は、いくら押しだしても、くりかえし、いつかはわたしの頭のうしろに入りこんで住みつづける、押しだすことのむずかしい思いちがいだ。この思いちがいとともに生きる他はあるまい。
 思いちがいを恐れずに、毎日新しく思いちがいを世界にこじいれてゆく他ない。ひどい思いちがいは、わたしをいたい目にあわせる。そのいたさにたえて、自分の思いちがいにしがみつくか、すてるかは、わたしの自由な選択だ。
 いたい目にあうごとに、わたしは、自分のえりくびをつかまれて、真理のほうに向けられる。真理は、痛い方角にある。しかし、真理は、方角としてしか、わたしにはあたえられない。思いちがいに思いちがいをついで、その方角に向うのだ。思いちがいのなかで、思いちがいをすてることでその方角を向いて死ぬ以外に、何ができよう。
(退行計画)

ぼくのような人間がもつ、おもいこみのはげしさは、鶴見俊輔のような才能などではなく、単なる病気なのだとおもう。このようなところからは、なにもうまれないだろう。おこりうることは、おもいこみによって、とりみだし、右往左往し、あげくのはては、自己弁護を、自分をたもつ唯一の方法だとおもいこむことである。そして、ちかづくものをとおざけ、否定するのである。

http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/SAKKA/tu/tsurumisyunsuke.html

 

hide-himuro.hateblo.jp

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社会性を心身にはぐくむきっかけとなる場をつくりたい。大学職員として、それを教育の現場に位置づけていきたい。

教員と職員が、「おっ、これって、いいよね。」と話がはずんだとき、すぐに、行為にうつせないというのが、まず、疑問だ。どこにいるのかもわからないお偉いさんに、うかがいをたてるために、まずは手続きのための窓口をさがさなければならない感じの煩雑さがある。いかにも形式をおもんじる学校らしい。他人事にはできないが、まるでカフカの小説のようで、おもしろい。

もうひとつ疑問なのは、仮に、ちいさなことから、はじめたとしても、それは業務のひとつにはならずに、ボランティアみたいなあつかいになる感じがあることだ。こういう空気があることは、教職員の自主性をおおきく、そこなっているとおもう。「食事という経験は、社会性をはぐくむ」というかんがえを検証するために、いったいいくら、学生にお酒やご飯をごちそうしただろう。これは、まったく自分のかんがえをふかめるためにやっていることなので、身銭をきることをいとってはいないが、そもそも経費でやれないというのが、バカげている。

教育および研究が、なぜ学校という、さびついた機関に、しばられなければならないのだろう。

ひとつは、資本の問題だろうか。ほかは、権威か。設置認可だなんだという文科省のお墨付き。そして、世間だ。あとは、研究者や教師に、金もうけしちゃいかんみたいな戒律があることだろうか。

べつの文脈で、教育をやれるようにしたい。

林竹二と竹内敏晴の対談本に、『からだ=魂のドラマ 「生きる力」がめざめるために』というものがある。教育に関する本である。タイトルが内容のすべてをあらわしている。

からだ=魂のドラマ―「生きる力」がめざめるために

からだ=魂のドラマ―「生きる力」がめざめるために

ぼくはこういう文脈のことをやりたい。

ところが、社会性を心身にきざみこむことや、いきていくちからを心身がつかいこなせるようになることなど、そういうものは、学校という教育の場ではできないこと、というよりも、不要なことなのかもしれないのである。

そもそも、ここのところで、組織のありかたと、志向性が一致していないから、つかれるのかもしれない。

hideは「ぼくはロックに依存して、社会性ができあがった子どもだった」といっている。ぼくは、居酒屋のマスターだったり、市井のひとびととのかかわりあいのなかで、社会性をはぐくんでもらった。

世のなかに、こんな場があるのだから、学校にだって、ある方がよいとおもっていたのだが。

やれるだけやってみて、ダメなようなら、さっさと見きりをつけよう。

自分で自分に嘘をつくから、鬱っぽくなるのだ。自分のこころを直視して、信じるしかない、そもそもそれが、いきるということだ。

なんでしょうなあ。
なんで、こんなに、だらしない人間になってしまったのだろう。

いつのまに、あんまりがんばれない人間になってしまったのだろう。10歳代のころとか、20歳前後のころは、もうちょっとまともだったような気がするが。

どこで、どうこじらせて、こんな、まともでなさそうな、いきかたをしてみたいとおもうようになったのだろうか。

gendai.ismedia.jp

自分に嘘をついて、がんばりつづけるのは、無理だ。このまま、嘘をついて、つくり笑顔をしつづけて、会社勤めをしていくのは、無理だ。どこかで破綻するという予測があるが、自分のこころの状態をよく感知できる訓練をしているつもりなので、そのときは、ほんとうに、もうまもなく、きそうなのである。

大学の会計課で、上司Xのもとで、自分に嘘をつき、グッと、ことばをのみこんで、自分を非人間としてあるように律していくことは、もう無理だ。

ぼくは、社会性がない人間で、会社勤めをする入口で、つまずいたから、社会復帰するために、3年は、なんとか、たえしのんだ。だけど、3年やってみたが、組織人間になることは、やっぱりできなかった。

もう腹をくくって、やめてしまう覚悟でやってやろう。部署異動願がないので、直接、直談判しよう。すぐにでも、しようとおもう。とにかく、学生部の学生相談室のはりつき職員をやってみたい。

そいで、どうにもならなかったら、あとは野となれマウンテンである。もう一回、すべてをゼロにして、地道にやりなおそう。やってみたい勉強もあるし、発信してみたい情報もあるし、かいてみたいこともあるので、ちいさなことから、コツコツとやっていこうとおもう。時間と精神的な余裕と友人・知人たちとのゆるいつながりがあれば、大丈夫だろうと、あまく見積もっておこう。

とにかく、いまの部署で、このままはたらいていくのは、もう明日にでも、再起不能になってしまいそうなのだ。

うーむ。それにしても、いつから、ぼくのなかには、こんな病的なものが、すみつくようになったのだろう。高校ですごしていたころから、薄々、その存在には、気づいていたけれど。まさか、こんな病的な悪魔だとは、おもわなんだ。

立身出世だとか、所属組織のためにだとか、そんなことに努力している場合ではなくて、自分が崩壊しないように、この病的な悪魔とのつきあいかたを模索していくことを、自分の生活の中心に位置づけなければいけないと、切実におもう。

教育とは、なにか。大学職員がおもうこと。

研究とか、表現活動に軸足をおいているひとと、お話をするのが、とてもたのしい。

かれらは、ぼくの知的好奇心をかきたててくれるし、ぼくの知性に対するあこがれの気もちをみたしてくれるし、ぼくの表現欲求をも、うけとめてくれる。しらないことをしるよろこびを味わわせてくれて、「明日には、"これ"を勉強しよう!」という意欲をかきたててくれる。

ぼくは、かれらとの対話の場に参加することで、そこに、教育的な意味をもった空間が成立していることを感じるのである。

ところで、教育という仕事に軸足をおいているひとと、はなすとどうだろう。

ぼくは、かれらと話をしても、なんにもたのしくない。むしろ、不愉快なことがおおいくらいだ。

それは、なぜか。

理由はわからないが、かれらからは、自分のものさし(尺度)で、このぼくの発想をはかるばかりで、ぼくにも、ものさしがあることをみとめていないような、そういう息ぐるしさを感じる。ひとのことばをかりると、かれらは、「ぼくのなかにあるエスノセントリズム」を指摘するが、「かれら自身のなかにある"それ"」に、気づくことができていないような感じがある。そんな気が、ぼくはしている。

うまく、この違和感をことばにすることができないが、とにかく、教師といわれるひとと、話をしても、なんにもおもしろくないのである。

以上は、この間、ぼくが感じたことである。他意はない。