漫画と映画で興味をもってから、世界史を勉強するきっかけをつくる。ヒトラーから、ドイツ史をかじる。

ヒトラーのことをとりあげた作品をみて、ぼくって、全然、世界史の背景をしらないということに気がついた。

それで、高校の教科書をちょっとのぞいてみたら、なるほど、ドイツは日本の戦国大名が割拠していたのと、おなじような感じやったのか。そいで、プロイセンを中心に統一するのが、小ドイツ主義で、オーストリアとドイツをがっちゃんこするのが、大ドイツ主義だとか。めっちゃざっくりだが。

ヒトラーが夢みたスケールのでかさには、なるほど、こういうものが、その思想の底にながれていたのかもしれないと、想像してみる。

なにはともあれ、ヒットラーという人間をダサいとおもえた自分に、花丸をつけたい。自分のことをヒットラーと、にたようなタイプの人間やなって、おもったものだから、ホッとしている。ダサいとおもえてよかった。

歴史的評価のことをいっているんじゃない。歴史的評価なんて、ぼくにはわからん。戦争、というか、そもそも、ひとの血をみることが、いやだし、なんか素朴に、あこがれのモデルにならんかったということに、ホッとしたのだ。

つぎは、ゲッベルスをどうおもうかだ。ユダヤ人をにらむ、つめたい目と、笑顔の奥に影がひそむ表情が、印象にのこっている。

ヒトラーのつぎは、ゲッベルスのことが気になっているので、映画かなにかをみようとおもう。『ゲッベルスと私』は、レンタルできるのかしら。おなじやつの本があったので、それは、すでにかっている。

ゲッベルスと私

ゲッベルスと私

ゲッベルスと私──ナチ宣伝相秘書の独白

ゲッベルスと私──ナチ宣伝相秘書の独白

『ヒトラー~最期の12日間~』と『ドラゴンボール超 ブロリー』の感想【映画感想】とにかく、三浦大知のBlizzardがかっこよかった

よしっ。

ヒトラー~最期の12日間~』と『ドラゴンボール超 ブロリー』をみおわったので、はしりにいこう。

 

が、ちょっと感想をかいておきたい。

ヒトラーについては、まったく無関心だったのだが、つい先日、本屋で、水木しげるの『劇画 ヒットラー』が目にとびこんできて、にわかに気になった。

劇画ヒットラー (ちくま文庫)

劇画ヒットラー (ちくま文庫)

 

漫画からはいって、映画をみたので、視覚的なイメージをしっかりもつことができた気がする。

劣等感がつよく、プライドのたかい人間は、だれでも、「ヒトラー」になりうるものが、こころのなかにあるのではないかというのが、率直な感想だ。正直なところ、わがことを多少みているような気になり、漫画と映画をみているあいだ、からだが妙にあつくなった。ナチスヒトラーをへた時代にうまれたぼくは、自分のなかに、それになりうるあぶなっかしさがあることをなんとなく皮膚感覚的にしっていたことが、自分への不信感につながっていたような気もする。「ヒトラー」をしることで、自分のなかにある、あぶなっかしさを対象化できるすべをえたかもしれない。

 

ドラゴンボールについては、なんか、素朴に、おもしろかった。たのしめたこと、ちょっとワクワクできたこと、それ自体に、おおきな意義がある気がする。内容なんて、あるようで、なにもないアニメのドラゴンボールだが(※漫画のドラゴンボールには、めっちゃふかい内容がある。)、ド派手で、スケールのおおきい戦闘シーンや、悟空とベジータをこれでもかってくらい、かっこよくみせるシーンだけで、十分たのしめた。みせかたについての工夫がいろいろあることがわかり、たのしかった。ただ、ながい。ドラゴンボールに100分もいらない気がする。ドラゴンボールは、テンポの漫画だとおもうのである。三浦大知の「Blizzard」って歌、あらためて、かっこいいね。


三浦大知 (Daichi Miura) / Blizzard (映画『ドラゴンボール超 ブロリー』主題歌)

 

ドラゴンボール超 ブロリー
 

 

 

マイノリティ(社会とのズレになやみ、その原因を自分のよわさにあると、くるしむひと)をケアする場を大学に、高等教育の現場に、積極的な価値があるものとして位置づけていく活動を開始する。

大学という空間に、社会に参加することに疑問を感じている学生に対する、ゆるいつながりの場をつくりたい。

場としては、目的設定はしないが、ルールとして、つぎのようなことをひとつさだめておこうとおもう。

「自由を尊ぶことを基本とし、自己中心性・自文化中心主義を排することのない相対主義

かれらが、この場に参加することで、次第に主体性がはぐくまれてゆき、みずからのちからで、自分が参加できる社会の穴をみつけられるようにしたい。

まずは、この場をひらくことから、はじめたい。ずいぶん抽象的だが、とにかく、具体的なものは、スタートしてから、微調整をくわえていきたい。つまり、今日より、すこしずつ具体化がはじまっていくのである。

そのために、ちょっとずつ、まわりの人間にはなしていて、理解者をさがす活動をしている。ぼくに、それをやらしたいといってくれる人間をふやし、機運をたかめる努力をしている。だから、ちいさくだが、飲み会をひらいたり、ぼくが興味をもっているひとに、しゃべる機会をつくっている。

場をひらくことができたあとは、まずは、ゼミや教室など、現場に足をはこび、四六時中、観察をしようとおもう。

自分の皮膚感覚のただしさに、質的な保障をあたえたい。そのあとは、学生にあう回数をふやし、量的にも保障したい。
 
そして、この調査活動と並行して、理解者などを中心に、教職員や外部のひとびとと、研究会ほど、おおきなものでなくてもいいが、ディスカッションの機会を定期的にもてるようにしたい。

学生が大学を退学するという問題について、大学職員や教員がもつべき発想。

除籍退学率5%を改善するという問題(数字は適当だ)に、どうやってとりくむのかという課題があって、それに、中規模以下の大学はけっこう苦慮している。

今日、JR大阪駅でみたストリートミュージシャンがつくる場に、ヒントがある気がした。

街なかで、ひとりの女性ストリートミュージシャンのまえに、30人ほどが、たちどまって、その歌をきいていた。

パフォーマンスのあと、ストリートミュージシャンは、「今日は、おいそがしいなか、足をとめていただき、ありがとうございました。わたしのまえに、おいているCDは、今日うたった歌も収録されています。ご購入いただければ、すごく、うれしいです。」といった。

たちどまっていた聴衆のなかで、10人弱が、CDをかっていた。CDの価格は、1000円と2000円の二種類あった。

このみしらぬストリートミュージシャンは、33%の人間のこころをうごかしたのである。

これをみて、ハッとおもった。

このミュージシャンが、たった2人でも、聴衆のこころをうごかせば、5%はこえるのである。

ぼくは、最後まで歌声をきいていたので、そのとき感じたことを素朴につづる。

ぼくの目のまえにあらわれる現象としては、このミュージシャンは、聴衆の30人全員にむかって、うたっていた。しかし、ひとひとりのこころに歌をひびかせるという本質的なことがらについては、どうも、30人全員にむかって、うたっていたようにはおもえない。

事実として、3割くらいの人間しか、お金をはらってCDをかっていないのである。

しかし、このミュージシャンは、彼女のいうところでは、「ファーストアルバム」といっていたので、インディーズかもしれないが、商品として、歌を生産しているのである。それなりの市場価値をもっているミュージシャンであり、無名の人間の需要があるのであ。

除籍退学率の5%というのをかんがえる。

このミュージシャンが、もし、今日のストリートでの演奏における努力目標として、CDの売上を聴衆の5%と設定しておれば、たった2人にCDをうれば、目標達成なのである。

目のまえで、たちどまってくれた2人の人間のこころをひびかせる歌をうたえばよいのである。

これは、氷室京介が、東京ドームで、5万人相手に、うたうこととは、ちょっと質がちがうようにおもうのである。

核のところはおなじようにもおもうが、表と裏のようなちがいは、あるようにおもう。

大学の除籍退学率5%うんぬんの問題は、もちょっと発想を逆転させるべきだとおもうのである。この辺のことをもうすこし整理してから、ちょっと提言してみたい。どうせダメなようなら、やめる決意をしているのだから。

「95%のできる人間」にむかっての教育では、カバーしきれない、「5%のできない人間」への教育があるはずである。

ここにはおおきな溝があって、決しておなじ方法では、通用しないのだとおもう。

きくところによると、音楽の世界では、インディーズでやっていたときには応援していたファンが、そのバンドなり、歌い手が、メジャーでデビューしたときに、ファンをやめるようなことがあるらしいのである。

ここには、質的な変化があるようにおもうのである。

マジョリティとマイノリティとのあいだは、もちろん断絶していてはいけないが、質的なちがいがあるのだとおもう。

以上は、ちいさい数の人間を対象にするときと、おおきい数の人間を対象にするときには、発想を逆転させなくてはいけないような気がするという着想のメモである。

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街のありかたをプロデュースしている巨人が、どこかに、きっと、いるはずなのだ。

街あるき、ならぬ、街すわりをやっていた。

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ながめていると、どうも、ここで、歌をうたうかれらは、許可をえて、やっている感じがする。

4組くらいが、1列にならんで、うたっているが、どうやら、順番がきまっているようだ。ある組がうたっていると、ほかの組はうたうことはない。

これは許可をえているからということではなくて、仲間意識からなのか?

うたう順番のことは、さておき、おそらく、「ここで、うたう」ということについては、たぶん、だれかが許可をしているはずだとおもう。きょうび、「うるさい!迷惑行為、禁止!」となるのが、オチであるはずだ。

JR大阪駅の一角では、文化的な活動に理解のある有力者が、なにかをプロデュースしているような気がする。

暇なのもあって、気になりはじめたから、30分以上も、この場で、すごしていた。

ストリートミュージシャンの自己表現と鶴見俊輔の座りこみ

その声は、ぼくには、こころにひっかかるものとは、おもえない。

かれの歌声からは、個性をだすには、まだ、すてきれないプライドのかたまりが、邪魔をしている気がする。

などと、評論家ぶる自分は、さておき、「それをして(こんなところで、歌をうたって)、なにになる」という、嘲笑が、ぼくのこころの大半をしめる。

表情をくずして、あざわらうわけにはいかないので、ぐっと、こらえて、腹の底で、くくっと、わらう。その努力をほかにかたむければどうだろうかと。

そういう糞尿ほどにも価値がない想念が、以前は、自分のなかに、つよくあった。

この一年ちょっとのあいだに、それは、ずいぶんと、うすれていった。

つまり、こうして、「路上で、どうにもなるわけないと嘲笑されることを自覚しながら、それでも、夢をおいかける」人間と、おなじように、インターネットに、自己表現をしてきたことに、意味があったのだと、ここで気がつく。

こうして、目一杯、恥をかいたことで、同類の人間が、なにをいえるか、ということに、気がつく。そして、この表現には、お金にならない価値があるのだと、はっきりわかるのである。

ぼくをふくむ、かれらがやっていることは、つまり、鶴見俊輔の"座りこみ"と、なんらかわりのないことなのである。その行為の意味するところは、なんにもかわらないのである。

いま、ようやく、そうおもう。

そうおもえたことで、まえは、無個性だと、おもえたストリートミュージシャンの歌声が、妙に、ここちよく感じる。

これは、きっと、hideがインディーズのミュージシャンの音楽をほりおこした感覚にちかいはずだし、コブクロをみいだした、かれらの事務所の社長の感覚にちかいはずだとおもう。

ぼくは、いま、ようやく、この感覚から、自由が地平線のようにひろがっていくさまをみた気がしている。これを今後、ずっと持続できるように、たいせつにしたいと、切にねがっている。
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JR大阪駅にて。進学相談会のあと、先輩に、お酒をごちそうしてもらった夜。2019/9/14

【書評・日記】鶴見俊輔の「退行計画」をよんで。いきかたがかわる文章との出会い。

梅棹忠夫の「アマチュア思想家宣言」が、ぼくにあたえた衝撃はおおきかった。そのおおきさにつぐ衝撃が、鶴見俊輔の「退行計画」にはある。いきていく方角が左右されるであろうと認識できる思想に、このたび、また、であうことができたという、よろこびが、かんがえることをやめさせる虚脱感として、あらわれる。

鶴見俊輔 (KAWADE道の手帖)

鶴見俊輔 (KAWADE道の手帖)

この虚脱感は、むしろ、からだのこわばりをとりのぞくという方向へはたらき、心身がしずかに、しかし、活発に、脈うちはじめることを感じる。総体としてのこの虚脱感は、字面どおりのそれではない。

あたまのなかは脱力しており、からだはしずかに、ふかく呼吸をするだけであり、こころはまるく穴があいて、からっぽである。

「かんがえる」ということをこえたさきにある、なにかが、この感覚からはうまれそうな予感が、他者に、はたらきかけ、まえむきにいきるちからを腹の底にためていく。

他者に対して、ひらかれていく自分を、自分はながめている。

きのう、となりの部署の上司と、かえりのバスで、いっしょになった。

【上司】
きみは、いきかえりのバスで、本をよんでるみたいやけど、いったい、なにをよんでいるの?


【わたし】
鶴見俊輔をよんでいます。

なぜって?

・・・。
自分の問題のために、よんでいます。

いまは、鶴見俊輔をよめば、自分というつかみどころのないものをつかむことができるのではないかと、おもっているからです。

自分のことを、ことばにしつづけることで、みえてくるなにか。そういうことについて、鶴見俊輔をたよりにしています。

どれだけことばにしても、ウソっぽくて、いつわりの自分なのだけど、それをつづけるしか、しかたがない。

自分らしさをつかむには、これをやりつづけるしかない。

そんな感じです。


【上司】
なるほどなあ。

鶴見俊輔といったら、ぼくなどは、わかいときには、社会運動の方法をしるために、何冊かよんでいたけど、自分のいうような、よみかたはしていなかった。

ぼくが、わかいときから、やってきたことは、いまもそうだけど、~


バスのなかでの20分、ぼくは、かれをよくしゃべらせ、かれの話をよくきいていた。

ぼんやりと、ことばをならべていくことで、なにかがでてくるのではないかと予感し、期待したが、なんにもでてこなかった。

しかし、この空白の感覚が、創造的退行の夜あけまえなのだと、期待したい。

余談だが、よんでいる本の著者のことばはこびに、自分のそれが、ひっぱられることが、よくあるということに、気がついたことが、とてもおもしろい。おそらく、感じかたも、思考も、その著者に、ひっぱられているはずだ。

本のよみかたとして、自分なりに、正解だと納得できるのは、こういうときなのだと、最近はおもう。むかしから、ずっと、自分は、こういうよみかたをしてきたはずなのだ。

そのひっぱられ具合を、こうして、ことばにして、みえる化しているのは、よいことだとおもっている。